言説布教
言説布教
ごんぜつふきょう
口述による布教であって、宗教の伝道には古来もっとも一般的に行われている方法である。
あらゆる機会、あらゆる場所で可能であり、また個人的にもよく、大衆を相手にすることもでき、巡回もできるし、特定の会場のみでなく、路傍に立っても可能である。
ラジオ・テレビなども利用できるとあって、言説布教ほど機能的な方法はないといえよう。
現代では言説布教というが、近世には「説法」という名称が多く使われた。
また説法には経典を講読するところから「講経」という名称も用いられた。
現代の言説は全く説法者の自由と裁量にゆだねられているが、近代以前には、なかなかきびしい規定があり、取締りもきつかった。
例えば慶長一三年(一六〇八)に身延久遠寺がその門末に発令した式目の中に「本山の許状を帯せず、弘通する者は談義停止の事」とあって、許状なく勝手に講経や説法することは禁じられた(『静岡県浜松市天竜川町妙恩寺所蔵の式目』)。
少青年僧を教育する檀林でも、取締りはきびしかった。
飯高檀林所蔵の説法談義に関する規定によると、公開説法をする者は必ず能化(檀林長)の許可状を受けてから実施する。
もし許状を持たないで勝手に説法した場合は、よく調べたうえ檀所を追出すといったきびしさがあった(『飯高檀林所蔵式目』)。
なぜ、このようなきびしい取締りが行われたかについては、いわゆる口は禍を招く諺の例に洩れず、公場説法がとかく物議をかもし易く、とりわけ折伏が自賛毀他と誤解され易いことの多いことが、当事者に戒慎を呼びかけさせたものと推察されるのである。
この近世の言説布教の場合、口述にはどんな言葉が用いられたかをしらべてみる必要もある。
しかし、これを如実に知ることは甚だ困難である。
布教の相手が長幼貴賤貧富さまざまであり、口述の内容、例えば経典を講ずる場合とか、相手が高貴な個人とかによっても使う言葉は変らざるを得なかったであろう。
相手ばかりでなく口述する人自身、身分や年齢または生地などによっても使う言葉の異なるのは当然である。
徳川光圀と皆如日乗との対話をみると次のようである。
「(光圀)法華経は読んで見るに殊勝成事、かへって維摩経又は楞厳寺のやうにはなし。
(日乗)仏の随自意己証の法文なれば、幽玄深遠にして、凡見にはかりそめに御覧ありて、おもしろくありがたきとも、はやく御合点なき御事也。
維摩等のごとく文のおもてにあらはれで、御合点ゆかぬ事なれ。
さ思召さるる也。
その当さに御合点ゆかぬ所ありがたき御事也。
云々」
この例で、およそ当時の講義用語らしきものを知ることができよう。
元禄・宝永のころ(一七〇〇年前後)になると、説法者は俳優の口上などを聞き習って、説法や談義のときの口述に技工を施すようになった。
説法がリズム化され、美文化されて聴衆の感情に訴えようとした。
凌霄日鶴の法話稿本にみられる次の如き文章は、そのよい例である。
「熟熟思ヒ回ラセハ抑モ曠劫ノ昔ヨリ、草枕タタ仮初ニ迷ヒ出デテ、幾世ヒサシキ其間ダ、生死ノ街衢(チマタ)ニ起キ臥シモ、心ノ興ルニ任セツツ、思フニ従ヒ諸ノ、不善ノ業ヲ作(ナセ)ルユエ、冥(クラキ)ヨリ冥ニ入リ、迷ヒニ迷ヲ重ネ、浅間シキコノ身ノ上、然ルニ今宿善ノ朽ザル有ツテ幸ニ、受ケ難キ人身ヲ受ケ、殊ニ値ヒ難キ妙法華経ニ値ヒ奉ル(略)世ヲ海ノ(アマ 舟+虫)ノ小船ノ綱手縄、心ノ引クニ身ヲナ任セソ」(凌霄、宝暦五年=一七五五=著『勧信黄葉譚』上巻三丁・同下巻二丁)
日鶴はこのように、多くの話材・思想などを一流の麗筆を振い、美文に托して公刊したので、説法者は盛んにこれを利用した。
語呂のよい名調子の語り口を聞法者は随喜の涙を流して聴いた。
こういう名文句による説法口述がなされたのは元緑前後の頃からと推側されるが、今日のいわゆる「繰り弁」というのは、このような美文麗句の説法が起源になるのであろうといわれる。
「繰り弁」というように固有名詞化したのは江戸末期又は明治の初め頃であろうと推測される。
説法の内容においても、近世初期、中期、後期とそれぞれ特色を発揮しつつ、明治時代を迎え、さらに近代から現代へかけて、布教方法の主流をなすものとして発達してきたのである。
現代においては刊行物など、いろいろなマスコミがあるが、やはり言説をもってする布教は、最も直接的、日常的なものとして有力な存在となっている。