繰り弁
繰り弁
くりべん
日蓮聖人と先師の伝記を語呂のよい言葉、調子のよい口調、抑揚ある語りで作った説教を言う。
聖人のご一生、ご誕生からご入滅までを七〇話から八〇話にまとめている。
また約一〇話の外伝(弟子、信者が主役の伝記)もある。
繰り弁という言葉がいつの時代に名づけられたかは不明である。
しかし、その内容である名調子の祖伝及び先師伝は、江戸時代末期にはほぼ出来上っていたので、このころと考えられている。
繰り弁の成立を考える場合次の二つを忘れてはならない。
(一)繰り弁は、祖伝及び先師伝であって釈尊伝ではないということである。
これは浄土真宗の節談説教も同じであるが、室町、江戸と時代の落ちつきと共に固定した「祖師信仰」の高まりと共にできたと考えられることである。
(二)徳川幕府の宗教政策である新しい宗旨、他宗批判を禁じ、檀家制度という金しばりの中で、各教団は内にとじこもり、自宗が如何に勝れているかを説くよりも、身内の人々に祖師上人が如何にありがたいかを説く人々の方が多くなっていった。
内容がありがたさ主体となると口調も、淀みなく流れるよう、抑揚宜しきを得た語りが大衆うけすることは分かり切ったこと、時には役者のまねまでする人がいたといわれている。
こうした土壌、こうした流れの中で「繰り弁」は育ったということである。
次に繰り弁の構成であるが、人々に最も親しまれている「文八―四条訣別の弁」を引用しながら考えてみたい。
四条訣別の弁は、「文永八年九月十二日、吾祖日蓮大聖人裸馬に召させ給い、鎌倉の大町小町雪の下、大路小路を引き廻し、御霊の社の前に御馬がかゝらせ給う」で始まっているが、繰り弁の構成上そこは「語り」といわれる部分である。
繰り弁の場合、いきなり「語り」から入ることはないので、四条訣別の弁の場合も当然その原因となった雨乞い。
諸宗折伏。
『一昨日御書』のことなどがごく普通の口調で語られ説明される。
また前日に引続いての場合は、この前の段『諫暁八幡』『召捕の弁』などの説明が大まかに行われる。
この説明の部分は繰り弁とは言わない。
「お役人、此の馬しばし止めさせ給え、此処に別れを告ぐる者あり」と仰言ると御馬がシャンと止った。
「熊王殿御身大儀乍ら此の社の後、四条金吾の館に参り、此の数年が間、御帰依下されたる日蓮も今宵片瀬滝ノ口、最後の御別れが申し上げたしと、御伝え下されかし」「かしこまってござる」ここは「対話」である。
目上の者(日蓮聖人の場合など)の時は自分の右下に目線を当てて話し、目下の時は左上に当て体を少しつめて話す。
又、目上の者の口調はゆっくりで、子供は少し早目である。
四条金吾などの若者は声をひびかせる。
老人の時はゆっくり、しかもひくく発音するなどの心配りが大切である。
最後の、「兄弟四人はつくづくと高祖の顔をうちまもり、泣く泣く御馬の口に取りすがり、止むれど早き駒の足、いつ歩むともなく七里ケ浜、浜の真砂の数々よりも、思えば多き御大難。
云々(略)」ここは「道ゆき」である。
一種の「うた」である。
この場のあり様を実に明瞭に現わしている。
このように繰り弁は語り、対話、道ゆき、の組合わせで作られており、中でも語りと対話が大半で、道ゆきはいわば聴衆の感情にうったえる役どころとなっている。
次に繰り弁はそれだけで一座の法話としては成りたたない。
その前に前説とよばれる法話がある。
法華経の教説を法・譬・因によって説明、中回向のあと、その法話の総まとめとして繰り弁が登場するのである。
(高座説教の場合)テーブルなどを使用しての法話の場合も前説があり、中回向はなくてすぐ口調を少しかえた繰り弁となる。
更には変則的だが、先に繰り弁を語り次に法話をする場合もある。
以上の説明の通り、繰り弁は一座の説教の正しさの証明の役として活用されてきたが、時によっては、それしか聴衆の頭の中に残らなかった場合もあったようである。