説法者
説法者
せっぽうしゃ
口述による布教がいろいろな呼び方で言い表されているが、近世に入って、やや多く使われたのは「説法」というこの名称である。
この口述の方法で経を講じたり、談義したりする人を説法者と呼んだ。
広い意味の布教という立場から、この説法者に対して、祈祷布教に従う者を修験者と呼んだ。
近世においては、この修験者との対比において説法者が考えられることが多かった。
近世における代表的説法者の中で、生涯に一万座以上の説法回数を保持する者が九名いる。
そのうち、二万座以上といわれる説法者に霊鷲日審(一五九九-一六六六)、覚成日念(一六三四-一七〇七)、境妙日統(一六八六-一七四四)の三名が数えられる。
この説法者出現の状況は宝永七年(一七一〇)頃をピークとし、それ以後約六〇年間は相当数の説法者の出現を見たのであったが、それ以後の約八○年間は前の六〇年間の半数に減じたまま横這を続けた。しかもその八○年間の内の中間の約四〇年間には、文化・文政・天保の出開帳の最盛期があった。
したがって、その出開帳にはほとんどつきもののように、説法者の需要度は高まったはずと考えられる。
にもかかわらず、説法者の出現率は低く、横這状態を続けていることは何を意味するであろうかと考えさせるものがある。
この頃の遠寿院・智泉院の入行者列名によって、江戸後期に属する期間の入行者人員の増減状態をみると、説法者の出現の低調であるのに比べて、修験者の方は、徐々にではあるが、増加の線をたどり、幕末にいたって急上昇を示している。
つまり、数の点では説法者が減少するに反比例して、修験者の方は増加していった。布教という立場から修験者が説法者にとって代った形とも考えられる。
どうしてそうなったかを、影山堯雄は、説法者になることの方が、それがための準備学習とか、実際訓練とかの点で、修験者になることよりも、はるかに困難であったということと、いま一つは医薬療法が当時は未開発であったため、一般社会がその療病の大部分を祈祷の力に依存していたところから、専ら精神面の教養に重点をおいた説法者よりも修験者に対する大衆の要望度がはるかに強かったという、この二点を指摘されている。
現代の日蓮教団においても、近世と同じような傾向がみられ、口述布教に従おうとする者より、修法師を望む者の方がその数において多いというのは、教師の主体的条件によるものであろう。
寛文五年(一六六五)の頃、説法者の一部の間には、講席で好ましからぬ身振りや戯言を弄していたため、それを規制するための布令が出されたりした。
了義日達(一六七七-一七四七)は、その頃の説法者の状況について慨嘆し、説法要心なることを説いた。
いまどきの説法者は仏説を説きながら、笑いを聴衆に取ろうとするが、これなどかえって仏説を戯弄の語とするもので、その大罪恐るべきであると論断している。
凌雲日尚(一七二一-七八)はその著『犀浦沙弥訓』四巻に、特に「説法」の一項を設け、広く経律論書を引いて、説者聴者両方にわたって縷説している。
法師が師子座に処する場合の心得として、「十住毘婆沙論」によって次の四つを挙げて、(一)高座に登る際はまず大衆を恭敬し礼拝してから昇る。
(二)大衆の中に女人がいたならば、それに対して不浄を観ずる。
(三)聴衆から仰ぎ見詰められる威容は大人の相であるべきで、教法を演べる時、和顔にして法悦をいだけば、聴衆はみな信受する。
仏道以外の経書は説かず、心におじけをとってはならない。
(四)悪言や問難をうけた折は忍辱を行え。
という意味のことを示している。
当時の好ましからざる説法者への訓戒であるが、時代の変遷を超えて、現代にもほぼあてはまる戒めとみてよかろう。
説法者の用具や服装なども寿像画が伝えられていて、それによってほぼ窺い知ることができる。
時々によって多少の相違があるが、現代にも行われている高座説教の用具や服装に、その伝統が引き継がれている。
《影山堯雄『日蓮宗布教の研究』》
(長谷川正徳)