妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

叡山戒壇

えいざんかいだん #1017

叡山戒壇

えいざんかいだん

伝教大師最澄(七六七-八二二)が提唱した大乗戒壇のこと。
円頓戒壇ともいう。 また、具体的に比叡山上に建立された戒壇院を指すこともある。
従来、日本には奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺の三ヵ寺に戒壇が設けられており、僧となる者はこれらのいずれかへ赴いて律を受けねばならなかった。
最澄が晩年特に力を傾注させたものは、天台宗の僧を受戒させるための大乗戒壇独立の運動であった。
南都の四分律の戒(小乗戒)と梵網戒(大乗戒)とを併用させたものであったが、最澄の目指した大乗菩薩僧の受けるべきは純粋な梵網だけによるものであった。
最澄はかつて一九歳の延暦四年(七八五)四月六日に、東大寺の戒壇院において具足戒(小乗の二百五十)を受けているが、弘仁九年(八一八)三月には門弟達を集め、その前で小棄捨を宣言した。 この以来、比叡山に新しく大乗戒壇を建立すべく運動の火ぶたが切られ、菩薩僧の養成に挺身したのである。
大乗戒壇独立の構想は、法相宗の徳一との論争を契機に、『守護国界章』の執筆推敲の中から急速に具体化したといえる。
弘仁九年五月一三日には「六条式」を、同年八月二七日には「八条式」を撰上して菩薩出家を奏請し、勅許を請うている。
最澄大乗戒壇独立提唱には、次の二つの由が考えられる。
一つには天台宗の年分度者として毎年二名ずつ割り当てられてはいたが、法相宗や他宗へ移る者も多くあり、天台僧の養成が順調には進んでいなかったこと、二つには鎮護国家の要道は、大乗経典に説示された菩薩僧の養成にあるとし、弘仁一〇年三月一五日に提出された「四条式」に説く所の純粋大乗の僧でなければ「其戒は広大にして真俗一貫」(『伝全』第一の一九頁)することにはならないので、小乗戒を棄捨して初めて純粋の大乗僧といえると主張することであった。
学上の理由から見ても、徳一との一乗三乗の論争によって、一乗に基づく台の立場を具体的に実現化することが先務でもあった。
最澄は「四条式」と同時に「請立大乗戒表」を朝廷に提出し、「誠に願くは両業の出家、永く小乗の儀を廻して同く大乗の機と為り、法華経の制に依て小律儀を交えず、毎年春三月先帝国忌の日に比叡山寺に於て清浄の出家を与へ、菩薩の沙弥と為し、菩薩の大戒を授け、亦菩薩僧と為し、即便ち住山修学せしめ、一十二年国家の衛護と為し、群生を福利し、国宝国利具に宗式等の如くせん」(『伝全』第一の二四九頁)と、大乗戒壇建立の意図を端的に表現し、勅許を請うている。 こうした最澄の運動は、当の僧綱や南都の寺々から強い反発を受けた。
これらの反論に対し、反駁を加えながら自らの律思想を明示して綴ったものが大著『顕戒論』三巻である。
最澄叡山戒壇独立の運動は、「山家学生式」に基づく一向大乗への帰一運動でもある。
最澄は『顕戒論』を始め『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論縁起』等の撰述によって、天台宗の立場を徐々に確立させ、それらを奏上して勅許を請うことに晩年を費やしたが、遂に最澄の生前には実現できなかった。
弘仁一三年六月四日に最澄は寂したが、その七日後の六月一一日に、嵯峨天皇より戒壇設立の勅許が下りた。
翌弘仁一四年二月には延暦寺の寺号を賜り、同年の四月一四日には初代座主となった義真(七八一-八三三)が戒和上となって新制度に基づく授戒の儀式を行っている。
長三年(八二六)七月六日に戒壇院建立の宣旨が下り、翌年の五月、光定(七七九-八五八)によって比叡山上に新しく大乗戒壇院が建立されたのである。
ところで日蓮聖人は、最澄大乗戒壇独立運動を評価し、三国仏法伝来の上に高くその績を称えている。 つまり、従来の日本の三戒壇がそろって小律儀に基づくものであったので、最澄はこの戒を蔑視して「小乗臭糞の戒」と呼び、インド、中、日本にも未だかつてなかった「円頓の大」を立てねばならないと努力された。 これによって純粋大乗戒の精神に則り、叡山の戒壇を中心とした法華経の流布は大いに功を奏したと見ている。
しかし、これら最澄のとった行動は、法華経の経文にも明白に顕れているのであるから、その経文を依拠として「叡山の大乗戒壇」は、既に建立されたのであると聖人は見ている。 そして「法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり」(『報恩抄』定一二四七頁、他に叡山戒壇については定七四八、一〇二六頁等を参照)と、最澄の功績を称えるが、次下に説示された日蓮聖人の三大秘法中には、最澄の叡山大乗戒壇とは別に「本門の戒壇」を提唱している。 これは聖人の独自の法華経観に立脚したもので、最澄の提唱した叡山戒壇を一応は認めながらも「今のにあらず」(定一三四四頁)と斥ける。 日蓮聖人叡山戒壇が像末時に建立されたもので、法華経の迹門に立脚しているから「去年の暦」(定一一二〇、一六三四頁)のように今日では役に立たないものとして破し、新たに末法の時と機に合致した、法華経の本門に立脚した「本門の戒壇」を末法の今に提示されている。
室町代の初期、本宗においても叡山戒壇を踏むという習慣が、一部の日昭門家にあったことを日親著『伝燈鈔』(『宗全』第一八巻)から窺い知ることができる。
《『遺文辞典』歴史篇「戒壇院」の項》

← 事典トップ