日昭門流
日昭門流
にっしょうもんりゅう
日蓮門下六長老の一人日昭を派祖とする一団の僧俗の呼称であり、鎌倉浜土の法華寺を根拠とした。
浜土の地名から浜門流との別称が起った。
日蓮聖人なきあと、日昭は日興に日朗らと共に鎌倉方と呼称されたように、日朗らと共に鎌倉における教団の指導的役割を果し、越後の地頭風間信昭を外護者に迎え、徳治元年(一三〇六)には相模名瀬に妙法寺を創立している。
翌年弟子の日成に譲り、文保元年(一三一七)には法華寺を日祐に譲り、元亨三年(一三二三)に入寂している。
日昭入寂の年に外護者の風間信昭は自己の本貫地の越後の村田に名瀬妙法寺の名跡を移し(現・新潟県長岡市村田)日成を迎えている。
鎌倉と村田の両寺は門流の中心拠点となり両寺一寺的な親密な連繋が保たれ、教線の伸張が計られた。
だが、日昭寂後凡そ六〇年の至徳三年(一三八六)に村田妙法寺日増は当寺は名瀬に草創されて後に当国に移ったもので、浜土の法華寺と当寺は左右牛角の霊地であり、近年両寺の優劣を論ずる者がいるが、これは逆罪であると厳誡しているものの、日昭門流の二大拠点であった鎌倉の法華寺と村田の妙法寺は、このころには最盛期の親密な連繋による両寺一寺的な考えが破棄され、それぞれ分立し独自な教線伸張の姿勢を示している。
鎌倉浜土の法華寺は日親の『伝燈抄』にもみえ、鎌倉において比企谷妙本寺と並武ぶ中心的な存在であった。
たとえば、永享八-九年(一四三六-三七)の永享法難の折には鎌倉における一六余ヵ寺の内、比企谷妙本寺と並ぶ中心的役割を負う寺院として、足利持氏の法華宗寺院破却に対して対抗している。
しかしこれ以降の法華寺の動向については明確ではたい。
これに対して村田の妙法寺は風間氏の外護のもとに教線を拡大することとなる。
当時第三世日運は風間信昭の舎弟村岡三郎であるといわれる。
また寺域も同氏の居城趾内にあることからもその関係の親密なことが知られ、妙法寺は風間一族の菩提寺、祈願寺として栄えていたと思われ、後世の伝えであるが寺領高は三五〇石余を有していたという。
支配末寺も三〇余ヵ寺を数える。
だが、戦国乱世の内に風間一族の外護も衰え、天正一九年(一五九一)に戦火とともに全山焼失し寺運が哀えた。
しかしながら、徳川氏の台頭と共に徳川氏の庇護を得ることにより再興され、慶長一八年(一六一三)には松平筑後守、松平大隅守より制札を下付され、慶安元年(一六四八)には再興以来開墾し所有してきた所有地を朱印地三五石として改めて下付されている。
元禄一一年(一六九八)には新領主の堀式部少輔の制札を下付され、寛延元年(一七四八)には京都の尼門跡と知られる村雲門跡から紫衣、乗輿の免許を得たように、江戸時代における妙法寺の発展は前代を凌ぐほど著しいものであった。
だが徳川氏や堀氏などの体制的な庇護と共に宗教政策の本末統制という枠組みの内で、日昭門流としての独自の動きは喪失し、身延山久遠寺の支配下に組み込まれてしまったのである。
《『日蓮教団全史』上影山堯雄『日蓮教団史概説』、辻善之助『日本仏教史』中世篇、『日蓮辞典』「日昭門流」の項》