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永享法難

えいきょうほうなん #3718

永享法難

えいきょうほうなん

一乗房日出と天台宗金剛宝戒寺の心海との宗論、つまり永享八年(一四三六)閏五月三〇日に行われた永享問答によって心海は敗退、このため心海は諸宗の僧侶と共に種々事を捏造して足利持氏に讒訴、鎌倉における日蓮宗を一挙に壊滅せんとした事件を永享法難という。
身延門流の日出は、応永二八年(一四二一)四一歳のとき、法を弘めんことを決意し、そのためには必ず蒙らねばならぬ迫害・障碍をまず身をもって試みんとして、一七日の勤行祈祷を行い、日出はここに弘法伝道の確信を得、三島を中心に盛んな法戦を展開した。 かくして本覚寺を創し、のち鎌倉に転教し、日蓮聖人が佐渡より帰られたときしばらく住居とされたという夷堂の地に草庵を構えてここを根拠と定めた。
鎌倉の金剛宝寺には心海なる人が住していた。 心海は足利持氏の深い帰依によって篤く庇護された人物であるが、日出の盛んな伝道と諸宗折伏を怒り、自身の学殖をたのみ背後の勢威をかさに着て宗論を挑んだのである。 日出は直ちに応じ心海と問答をすることとなった。 しかしこの問答に心海は惨敗して答えることができなかったので、日出は問答始末を記録し、翌六月二日付をもって持氏に提出、合わせて宗義を奏し諫暁した。 その結果、心海の讒訴とも相俟って持氏大いに怒り、鎌倉日蓮宗の壊滅を謀ったのである。
なおこれに加えて考慮されることは当の社会情勢である。 つまり関東方面に守護級の豪族を始め中小豪族が互いに相対し、あるいは関東管領の支配から脱れて領を形成せんとしているときで、永享八年一一月の信濃守護小笠原政康と村上中務大輔との争いなどはその現れといえる。 加うるに京都では関東の動きを伺い、あらば一撃せんと息をひそめて見守っていた。 かかるときの持氏の心状態は容易に推測し得るところで、彼は猜疑と不安におののいて日々を送っていたに違いない。 このようなときに心海らの讒訴は容易に持氏を動かしめるに至ったともいえよう。
この法難の具体的情景を日親は『伝燈抄』の中で次のように記している。 持氏は比企谷妙本寺、浜法華寺等を始めとして鎌倉中の一六ヵ寺をそれぞれ没収し、皆諸山諸寺に寄進することを定め、所司代千葉介の被官に仰付け、信者の侍は所領を召上げ、一般庶民は頸を斬り、法師は遠島に処す、信者・僧侶にして法華宗と名乗るものがあれば荒居の閻堂に集合せよと布告した。 日親は当、九州へ導師として不在であるが、弟子日妙は介添として問答に出席し、日出ともども不当を訴えんとし、これを聞いた僧俗も憶する色なく「上下ヲエラバズ僧俗打群レ打群レ、一門我モ我モト出デシ程ニ面ニ立ツ人数六十余人」の人々が閻堂に群集した。 「面ニタツ」というから僧侶・信徒の代表者たちで、これに率いられた数人あるいは十数人の人々がそれぞれに群をなして集まったのであるから数百の大群集となったことであろう。 あまりのことに驚いて、奉行人は御所に急使を馳せ情を告げて処置を請うたが、御所でも不思議なことがあり、その朝持氏が持仏堂に看経していたところ、夢うつつに「香染ノ法服メシタル僧ノ四十計リナリシガ、アヲノケニ蹈カヘシ進ラセテ胸ヲフマヘテ、何トテ我弟子ヲバ無情ニアタルヤラン、是非ニツケテ三箇年ガ中ニ命ヲ取ルベシ、我レ是ヘ来ルノシルシヲバ汝ガ鎧入レタル唐櫃ニ止メ置クゾ」といわれ、もなく本心に返ったところであった。 そこで上使をたてて「法華宗科有ルベカラズ、各々赦免シテ帰スベシ」と言渡した。 信徒の面々はまのあたり身命・財産を捨てんと不惜身命の立行の法悦に身心を燃やしていたが、余りの申渡しに「夢ノ醒メタル様ニテ各々退散」したのである。 持氏はその夢想ののち、泉涌寺の僧を召して祈祷し、唐櫃を開いたところ、羽蟻が飛び出て御所中に充満したという。
これは当日蓮宗の動向を知る興味ある件であった。 持氏始め讒奏者たちは、所領の没収とか斬首遠島とか言渡すならば誰一人恐れて名乗り出るものもなく、そうすれば鎌倉日蓮宗を一挙に崩壊させることができると考えていたに違いない。 ところが、案に相違して身命をおしまぬ信者僧侶は数百の群集となり、もし一人でも捕えたり傷害を加えればその結果は収拾つかぬ騒ぎになるであろう様相を呈した。 そしてこれは恐らく鎌倉周辺及び各地の所属法縁・血縁・俗縁につながる僧俗に反鎌倉の気風を盛上げ、頻発している土一揆や各地豪族の反管領勢力の結集蜂起が、これを好機として起るかも知れない情勢と、しかも虎視眈々と狙われている室町将軍攻撃の危険を察知し、法令撤回・赦免・放置という処置に出たもので、日親の記したように単に宗教的・神秘的由のみによるものではなかったと考えられる。
しかしこの件は、僧俗共に文字通りの生命がけで法難意識を燃えたたせた必死の行動であった。 その群集の悽まじい意気込みは奉行人始め役人を手のほどこしようのないまでに圧倒しきっている。 そしてこれはまた、従来の法難がほとんど僧侶のみに限られていたのが、(日蓮聖人の当時はのぞいて)一般の信徒と共に、即ち僧俗が一体となって不惜身命の行跡を残したということに特異を示しており、当時の団の結合力がいかに旺盛に意識されていたかを知るに足るものである。 この団結は、室町中期の社会一般情勢である、一揆的結合の先轍の影響を受けていることは否めないが、常に熱烈な信仰と法難意識が行動のもとにあり、ついには他の要因と共に一部で法華一揆のような強力な武装団体を結成するまでに発展するに至るが、要するにこの法難の顛末はたちまち全に聞えたであろうことは疑いなく、僧俗団結の力の確信をもたらせ、宗勢伸張にこの上ない支ともなったのである。
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修「永享法難」『日蓮宗の人びと』、『国史大辞典』二巻「永享法難」の項》 (松村寿巖)

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