妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

両寺一寺

りょうじいちじ #306

両寺一寺

りょうじいちじ

両寺が同格をもって運営されること。
富木日常(一二一六-九九)は置文をもって法華寺・弘法寺の両寺においては「日常存生の如きの思いをなし」と遺誡し、帥阿闍梨日高(一二五七-一三一四)が譲りをうけて第二世となり、日高は中山本妙寺に居て若宮法華寺を兼ね、真弘法寺は兵部阿闍梨日揚(陽)を主たらしめた。
そして日高は、その後を日祐(一二九八-一三七四)に付属するに際し、千葉胤貞の加判をもって法華寺・本妙寺並びに若宮八幡宮別当職その他を日祐に、弘法寺を日揚の弟子弁公日樹、その他堂職を二、三の弟子に付属した(日高譲状)。
この弘法寺を譲るについて日樹の起請文の提出を求めた。
日樹は起請文を認め、中山から離反するようなことは絶対にないと誓っている(『中山法華経寺文書』)。
このことは弘法寺が、日常の考えていた両寺一寺の法華寺と同格の重みが、日高の時には本妙寺に移り、むしろ本妙寺を主とし法華寺を合せ兼たことにより、弘法寺は両寺一寺の地位から下って、代官をもって運営せしめたかのようである。
この起請は弘法寺が及河一門によって運営される気配になりつつあったから、なされたともいえよう。
また浜門流の浜土の法華寺と村田の妙法寺との関係もまた両寺一寺といえる。
ち日昭寂後約六〇年ののち至徳三年(一三八六)、妙法寺日増は置文をもって「当寺は名瀬に草創されて後に当に移ったもので、浜土と当寺は左右牛角の霊地である。近年門中において両寺の優劣を論ずるものがあるが、これは逆の至りといわねばならぬ」(原漢文・村田妙法寺文書)と厳誡し、当寺と浜土とは同寺一寺として更に和融を密にするように真俗中に申渡している。
また小湊誕生寺と興津妙覚寺もまた極めて親密な連繋が保たれ両寺一寺の関係といえる。
なお日隆は寛正四年(一四六三)五月一三日、本能寺法度七ヵ条を定め、京都本能寺・尼崎本興寺を両山(寺)一寺となして門流の根元としている。
《『日蓮団全史』上》

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