造像
造像
ぞうぞう
諸仏・諸菩薩などの諸尊や諸天の尊像を木像・鋳像・石像などによって造立すること。
本尊・持仏・随身仏・守護神として造立され、主に木像が多い。
日蓮宗では守護神としての諸天や三十番神などの造立がなされ、如来としては釈迦仏しか造立することはない。
広義の一体仏の造立としては諸菩薩、諸天の造立がなされ、釈迦一体仏の造立は主に持仏・随身仏としては造立されるが、本尊としては造立しない。
本尊の形態は一尊四士・二尊四士・一塔両尊(四士)などの形態をもって造立される。
日蓮聖人は本尊造立の原理を一念三千に求めている。
『観心本尊抄』に「木画二像においては外典内典共に之を許して本尊と為す。其の義においては天台一家より出たり。草木の上に色心の因果を置かずんば木画の二像を本尊と恃み奉ること無益也」(定七〇三頁)、あるいは「詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実也」(定七一一頁)と述べている。
これは一念三千の構成要素たる三世間の中の国土世間によって成り立つ。国土世間は即ち草木を具す世間だからである。
これを依正不二という。正報である衆生世間と依報の国土世間とが不二というところに成り立つのである。
しかし「其の義天台一家より出たり」と述べられているが、いかに一念三千であったとしても、天台所立の本尊を是認するわけではない。
聖人は「本門寿量品本尊」といわれているのであって、地涌の四大菩薩を脇士とせねばならない。四大菩薩を脇士とすることによって発迹顕本した久遠の本仏の決定的瞬間があり、そこに真の一念三千の成就があり、そこに一念三千を造像の原理とする理由がある。
聖人滅後になると造像の可否が論じられるようになり、日興の流れを汲む富士興門派では造像を否定した。この事は他の聖人門下各派のとらないところの義である。
興門上期における造像の否定は、時節の問題として否定された。
即ち今は末法であり、末法流布の行相は折伏を表とし、造像などの摂受の行を裏とするのであるから、まず権教権門を破し、像法弘通の迹門を破して結要付属の大法を弘めるべき時であって、仏像造立などの摂受の行をすべきでないとする。
そして一天四海皆帰妙法の暁に始めて本門の本尊を立つべきで、それまでは公家に奏し武家に訴え、上一人より下万民まで広宣流布すべきである、として末法当初の仏像造立を否定したのである。
ところが室町期になると造像否定の論理は、仏の本体論によって論じられるようになった。
即ち釈迦は脱仏であるという思想から否定されるようになったのである。
大石寺日有、保田妙本寺の日要、日我らは下種論・本仏論によって釈迦仏は脱仏とし、末法下種の能化仏ではないとして不造論を主張した。
種脱に勝劣を論じて種勝脱劣とし、今末法は下種の時であり、下種は必ず本因に限り、本因は必ず名字実仏であるから、今末法は名字実仏を本尊とする、として造像を否定したのである。
このような不造論に対して、同じ興門の日尊の流れを汲む要法寺の広蔵日辰は、『造仏論義』一巻を著して不造論を批判し造像を肯定した。
即ち釈迦仏は脱仏であるけれども、久遠元初の自受用身の如来は下種の仏であり、この本果妙の自受用報身のみ真の本尊であるから、造像を妨げないと主張したのである。
また他門では真門の不軽日真の弟子証誠日雄が『仏像造不之論』一巻を著して不造論を批判した。
江戸期になると大石寺の堅樹日寛が興門教学を大成し、不造論を確立したが、嘉伝日悦が『造仏読誦論』一巻を著して、不造論を否定した。
これらのことが、のち寛政の法難(一七九五)をうむ要因となったのである。