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漢詩

かんし #4009

漢詩

かんし

日蓮聖人あるいは日蓮宗に関連する事がらを詠み、また日蓮宗僧侶・信徒により種々な象について詠まれた漢文体の
最も代表的な漢詩人である元政の『草山絶句』『元元唱和集』は、漢詩による詩的体験を鮮明に表白した最高傑作である。
『草山絶句』は、平明で清澄な表現で世俗の麈界を払った脱俗の境地を示し「深山未だ是れ人の声を聴かず」「旅客流して飲んで秋満腹」「満林の花は一枝の中に在り」などの句のうちに清冽な的精神を流露させている。 『元元唱和集』は、元政と陳元贇二人の元の名を冠した人同士の漢詩集である。
明末の亡命人陳元贇と出会った元政は、ともに元の字を持つことから兄弟のごとき親近感を抱き、元贇七三歳、元政三八歳の年齢の違いを超えて唱和集を出版した。 『元元唱和集』にある「李梁谿が酒をむる詩を和す」という五言古詩のに「蓋し霊より流るる者は徳有るの言也。 模擬より出る者は必ずしも徳有らざるの言也。 霊より流るる者は或は整斉ならずと雖も痕なし。 模擬より出る者は是れ整斉なると雖も未だ必ずしも痕なくんばあらず」との主張がみられる。
また同集開巻の陳元贇のにも「其の性霊を発舒し雅興を暢適するを為す」と記されている。
これは「模擬」を排して「霊」に基づくことを明らかにした根本的立場を述べたもので、人間が本来具有する精神(仏性)から湧き起る普遍的な的精神の表明を尊重することを意味する。
仏法の万行、何を以ってか本とすると、予之に応へて曰く、蓋し万行は戒を以って首めんとなし、孝を以て本となす」と『釈氏二十四孝』で語ったごとく、元政の戒律・孝養重視の姿勢を専一に追求した持戒・持律の姿こそ「性霊」より流れる徳を積む詩的精神の表白とその実行にあった。 仏道修行と歌を作ることを一体と見なしたことを意味する。
元政の無垢で風雅な清浄さを漂わせる風は、この生き方から流れ出たものであった。
しかも、この風は擬古を排し形式や種々な作の取決めに束縛されない「霊」に忠実な自由として成立しており、この点から元政は近代の先駆的存在であったと見なすことができる。
この論は、一八世紀に『随園話』を発表し「霊説」を唱えた清の袁牧の説とも一致している。 『随園話』は、一九世紀初頭に柏木如亭、大窪佛ら江戸の漢詩人に多大の影響を与え新壇の形成を生み出すが、元政の論と風は実にこれにも先立って陳元贇との的交流を媒介としながら打立てられたものであった。
それは明末の人袁中郎(宏道)が「霊心巧発」によって詠んだ風を継承し「春夜寝ず、戯れに袁中郎が漸々を和す」(『草山集』)といった作に対する取組みによって明確な論として形成されていったものであった。
この点から元政の風は、普遍的な自由であると共に際性を有する新詩の特徴をも有しており、その根本は「心是れ一切法、一切法是れ心」とする仏道・作詩一体の「性霊」即ち世塵を超脱した自由な「出離」の信仰精神の表明にあった、とみることができる。
この信仰精神が日蓮聖人への純粋な帰依と鑽仰にあったことは言をまたない。
元政の詠んだ「高祖」は、「南無上行菩薩」と合掌礼拝する深い信仰の一念と日蓮聖人讃嘆の的精神が結晶されている。 「末法導師、人の眼目。 竺漢に禀承(ぼんじよう)して日域に敷揚(ふよう)す。 格外(かくがい)の意豈に縄墨に泥(なず)まんや。 手に経拂(きようほつ)を執(と)って諸宗を議す。 補処(ふしよ)の菩薩もまた識らず」。 「霊山別付(りようぜんべつぷ)独り濁末を済(すく)う。 険危を蹈遍(とうへん)して死せんと欲して復た活す。 塵尾(しゆび)雨灑(そそぎ)音(ばいおん)雲遏(とど)まる。 諸竜神、法を聴いて蹙渇(しゆかつ)す。 如何がぜん、如何がぜん。 南無上行菩薩」。
元政はまた『身延道の記』を著し身延山への紀行を漢詩によって表現している。 「延山紀行」には「延山知りぬ甚(いず)れの処ぞ、母を携えて辛勤に奉ず。 千里明月に随う。 一庵白雲に任ず。 堂に入って古佛に辞し、に上って先君に別る。 日出でて霞谷を出づ、黯然として路分たず」とある。
また「身延山」では「甲陽の延獄東関に秀ず、重疊たる奇峰裡に閑かなり。 飛閣は独り流水に臨んで聳え、羣台は共に衆巒を遂って環る。 若し霊鷲金仙の洞に非んば定んで是れ台銀地の山ならん。 今代の文章孫綽が後。 何人が賦し得て人に到らん」と詠む。
更に「延山絶頂」においては、「身を湯鑊に投じて群毛を拯う。 終に雲山の深き処に向って逃る。 宗祖九年猶苦を忍ぶ。 吾儕(ともがら)一日豈に労を辞せんや。 蒼海を研って鴻を記せば須弥を聚めて兎毫と為さんと欲す。 別に風の追慕すべき有り、父母を贍望して斯の高きを陟る」と詠んでいる。
これら『草山集』に載せる漢詩は、いずれも日蓮聖人の性霊にあいまみえ、その日蓮聖人棲神の霊地身延山の性霊と自然とに一致調和した詩風を脈打たせており、法華経と日蓮聖人への無垢でひたむきな信仰の内実がこれらの漢詩に鮮やかに活現されている。
漢詩作品のうち古くには、兼明親王の「自筆法華経願文」、菅原道真の「観音念一遍」、大江匡房の「讃観音」など法華経に関する作詩があり、また加藤清正が「詣小湊山」にて仏徳を感じて「海潮音裡塵縁を洗う」と詠み「題鉄兜」で「世法仏法、君父の為に身を捨つれば、則ち釈迦多宝十方諸、必ず寂光の宝刹に護送せしむ可し。 恐れること勿れ、退くことも勿れ」と詠んだ漢詩などが知られている。
また法華経に関する漢詩で特異な作品に良寛の「法華」がある。 「口を開きて法華を謗じ、口を閉じては法華を謗ず。 法華々々如何がせん。 焼香合掌して曰く、南無妙法華」と詠まれている。
幕末・維新期における漢詩には、小川泰堂(一八一四-七八)の作品がある。
そのうち「拝常在殿聖舎利」は日蓮聖人舎利を目の当りに拝した時の心情を表現したもので「馨声(けいせい)三五春風に和し、喜気満氷雪を融す、恭礼す旦法堂を仰ぐの暁、紅暾は映ず、宝瓶の中に在り」。
また佐久象山(一八一一-六四)に「詠日蓮」と題する漢詩があり、「弘安尼物号豊充、独奈胡元闚此中。 満朝文武稠於草。 識破不若公」と記されている。
日蓮宗の学僧はいずれも数多くの漢詩を遺しているが、その中でも新居日薩(一八三〇-八八)の「留別充洽園諸君」は二五歳の時の作詩で「身在雲霞外、心逢夢寝中、只教道有合、何恨地不同」と詠み、明治一四年(一八八一)に身延山棲神閣が成った時の「宗祖六百遠忌有感」では「金殿凌空静瑞霞、焚香欽仰客如麻、法音嶺地厳浄、嘉会万年運不斜」と作している。
吉川日鑑(一八二七-八六)は、清兮(せいけい)と号し明治期における屈指の漢詩人であり、その作詩は『清兮上人詩集』に集録されている。
「留別充洽園諸兄」の「欲冲雲路末堪飛、離母孤雛翼尚微、他日若逃塵網去、飄然復慕舊巣帰」は直載に心情を表現しており、「祖山灰盡」では「本知万物乗の有ることを、地欣び来り亦晏知たり。 一に祝融に任じて衣鉢を褥う。 依然たり猶燼餘に書を読むが如し」という作には困難に直面しながら泰然として衣鉢をささげて復興に尽力していく覚悟の程が表現されている。
また三村日修(一八二三-九一)に「賀容月上人移壮池上」のがある。 「敬覚倫安夢裏僧。 長栄山上月初升、吾妙法須振起。 喜見庭階夜色澄」。 「緇衣負笈慕高風。 自北自南西又東。 山上冲雲丘層塔。 孰如法主徳望高」。
更に清水龍山(一八七〇-一九四三)は古愚と号し「講法華経示衆」のほか「題宗祖大士清澄開宗図」などがある。 このは「玄題高巌に立つ。 峰巒起伏して脚下に蹲まる。 地を抜く一千三百尺、清澄山朝噋を拝す」と詠まれている。
このほか塩出潤(甘雨)の「題清正公撲猛虎図」、片野玄貞(晃陽)の「日蓮上人誕生図」「三諫」「日蓮水」「日朗聖人土牢」などがある。
日蓮宗僧侶のほか小川泰堂、林古渓などの学者・信徒によって多数の漢詩が詠まれたが、法華経と日蓮聖人や日蓮宗に関連する事象を賛嘆した詩的体験を通じて教風の宣揚を目指した作詩と信仰の一致調和がいずれの漢詩作品にもうかがうことができる。
(石川張)

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