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元政【文学】

げんせい #681

元政【文学】

げんせい

(一六二三-六八)
一般に深草の元政として知られる。
諱は日政、その他日如、日峰、不可思議、泰堂、妙子、幻生、霞谷山人等の別号がある。
元和九年二月二三日京都一条に生れ、幼名を俊、また八郎といい、元服後は元政を名のり、長くこれを改めなかった。
父は石井元好、菅原氏の末裔で安芸の毛利輝元に仕え関ケ原の戦にも従軍した。
母は江州石山の人であるが姓名は不詳、元政はその五男二女中の末子である。
六歳より四書の素読を始め、その才は建仁寺巖長老を驚嘆せしめ、八歳より彦根で井伊直に仕える長兄元秀の下で武芸と幼儀を学ぶ。
一〇歳の秋に京へ帰り硯学に従って修学すること三年、一三歳で再び彦根に赴き、井伊直の侍臣となった。
一九歳に至り罹病療養中の一日、母に伴われて訪ねた京都泉涌寺塔中の雲竜院で如周律師のずる『法華経』に感銘を受け師に出家の志を伝え、また泉州和気村妙泉寺に祖像を拝して堅く三願の成就、即ち(一)出家得度すること、(二)父母の長命を祈り孝養を尽すこと、(三)天台の三大部を読了することを誓った。
彼の出麈の志は、この当よりすでに固まっていたといえるが、慶安元年(一六四八)二六歳のとき、京都妙顕寺日豊の下に投じいよいよ剃髪染衣を実現した。
明暦元年(一六五五)、三二歳に及ぶ洛南深草の里の幽静を愛した彼は、旧極楽寺薬師堂跡に小庵を結び、称心庵(一名竹葉庵)と名づけた。
以来ここに住して、その声誉を慕い道を求めて参集する多くの弟子と共に、法華経の研究と宗義の闡明に努め、当教界が腐敗堕落して戒を軽視する風潮を慨して、『艸山要路』を著し草山学風の根本を示すと共に、自ら持戒堅固に率先範を垂れ、徹底的に制に随順した。
富者権者に阿諛せず、弟子を愛すること厚く、世人は目して如来の化身となし、熊沢蕃山、石川丈山、陳元贇ら当著名の文化人が彼を慕ってここに集った。
三九歳の春には仏殿が落慶し、本門の界相悉く備ったとして、初めて深草山瑞光寺の額を掲げた。
また元政は、先の三願の一つとして父母を敬す志極めて厚く、出家後も必ず住処の一隅には父母の別室を設け、日夜に孝養奉して怠るこがなかった。
万治元年(一六五八)父が七九歳の高齢で没すると、翌年これも七九歳に達した母を擁して甲斐身延山に登詣し、父の遺骨を納めた話は『身延道の記』により有名である。
その母も八七歳で没すると、翌寛文八年(一六六八)自らも病重なり、二月一八日後を弟子慧明にし、辞世一首をのこして安らかに寂した。 寿四六の若さであった。
彼のは遺命に従い称心庵の南軒に葬り、ただ修竹三竿を植えて標とした。
元政は、実に広学多聞かつ博覧強記で、日蓮および台の宗学に通暁し、しかも国語国文に精通して、和歌を詠じては妙技神に入り、また漢語漢文を精研して、簡潔な名文で識見を吐露し、とくに五言七言の漢詩に堪能で、詩僧として当抜群の才幹を発揮している。
四六年の短い生涯に述作きわめて多く、とりわけ『艸山集』三〇巻はその代表的作品として(1)叙(2)書(3)記(4)伝(5)行状誌(6)銘(7)銘箴讃頌(8)仏事(9)雑著(10)賦(11)五言古(12)七言古(13)五言律(14)七言律(15)五言絶(16)七言絶(17)雑体(18)(19)文の一九種からなっている。
いま『日蓮宗宗学章疏目録』に従って、判明している著作を列挙すれば次の通りである。
(1)草山集三〇巻(2)如来秘蔵録一巻(3)小止観抄三巻(4)本朝法華伝三巻(5)同平仮名絵入本六巻(6)扶桑隠逸伝三巻(7)草山要路一巻(8)草山和歌集一巻(9)身延行記三巻(10)竜華歴代師承伝一巻(11)竜華伝抄一巻(12)釈門孝子伝一巻(13)唱題得意一巻(14)身延山七面記一巻(15)題目和談抄三巻(16)釈氏二十四孝一巻(17)温泉遊草一巻(18)都土産二巻(19)元々唱和集二巻(20)息心鋭一巻(21)称心病課一巻(22)食医要編一巻(23)以空上人方丈記一巻(24)谷口山詩集一巻(25)霞谷法語一巻(26)聖凡唱和一巻(27)江左垂示一巻(28)方丈記頭注一巻(29)校訂法華経一〇巻(30)衣裏宝珠抄一巻(31)身延行記抄一巻(32)拾遺愚草釈教歌抄一巻(33)雑録一巻(34)草山筆乗一巻(35)濡染集一巻(36)耳目雑記一巻(37)苑葉林一巻(38)法海波瀾四巻(39)文海波瀾一巻。
また、最近の『艸山拾遺』(昭和五三年、本満寺刊)には『一念三千御書』も元政の著作として収載されている。
《『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』五巻「元政」の項、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、浜島典彦『お題目と歩く―近世・近現代法華信仰者群像』》

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