戯曲
戯曲
ぎきょく
戯曲とは、ほんらい演劇の台本のことをいう。
近代日本の劇作の歩みは、役者が芸を見せるための演劇から、戯曲を上演するための演劇への転換を意図しながら展開された。
歌舞伎、新派、新史劇(新歌舞伎)、新劇、新国劇等の種々な演劇運動の胎動と凋落・伸長は演劇近代化の歴史をそのまま刻みつける足跡となっている。
従って戯曲も役者のための脚本として書かれた反面、戯曲そのものを上演する演劇の実現が追求され、劇作家のほか小説家等の手によって数多くの戯曲が作品化された。
日蓮聖人が戯曲に描かれ舞台で演ぜられる「日蓮聖人演劇」の場合も、この全般的傾向と無関係ではありえなかった。
日蓮聖人の戯曲が最も盛んに作られ上演されたのは、江戸時代である。
日蓮聖人の戯曲は当時「日蓮記」と呼ばれ「いろは日蓮記」とも称された。
「いろは日蓮記」は「仮名手本忠臣蔵」と同じく庶民性と平易さを骨格に脚本化されたものである。
一〇月に「日蓮記」を打ち一一月に顔見世狂言として「忠臣蔵」をだし物にすることは客入りをよくする上演の常道と考えられていた。
「日蓮記」は、享保三年(一七一八)一〇月に大坂竹本座にて上演された近松門左衛門の人形浄瑠璃『日蓮上人記』以来数多くの作品が生れた。
近松門左衛門は、法華経と日蓮聖人への帰依者で『釈迦如来誕生会』を書いたほか『お房徳兵衛重井筒』では「此の三界の衆生は、皆是れ我が子と聞く時は、親諸共に至るなりけり、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経(略)」と記している。
『日蓮上人記』を原作としながら、並木宗輔の添削した戯曲が『日蓮上人児硯(ちごすずり)』である。
寛延二年(一七四九)一〇月に肥前座で上演され、宝暦元年(一七五一)一〇月には並木鯨児・並木正三添作にて『日蓮上人御法海』と改題し大坂豊竹座で興行が打たれた。
この作品は「末法有縁の大導師、高祖日蓮大菩薩は、本化上行さつたの化身」という日蓮聖人観が基調となり伊豆および竜口法難を中心に生誕から入滅に至る一代記を描き「高祖の御法の力」を表現している。
また、同じ作者による『日蓮記御法花王(みのりさくら)』(文化一三年=一八一六=河原座で上演)も、この脚本を改題したものである。
これ以降、四世鶴屋南北作『法懸松成田利剣(けさかけのまつなりたのりけん)』(文政六年=一八二三=六月・森田座)は、生立・土牢・蒙古退治等を描き、勝俵蔵作『南爾寄来法華経(みんなみにくりきのむしぼし)』(天保元年=一八三〇=六月・中村座)は、生立、竜口・鵜飼勘作・七面山・蒙古の場に奴道成寺の筋立てを絡ませた脚本として書かれている。
次いで中村重助作『一世一代功力妙法字(くりきのだいもく)』(天保九年一一月・中村座)がほぼ同じ筋立てにより三代目菊五郎引退のお名残興行として演ぜられ、瀬川如皐(三代目)作『時南身延御利益(ときにみんなみみのぶのごりやく)』(安政四年=一八五七=八月・森田座)が前作同様の筋に鍋冠り日親・立正安国論の場を取入れて脚本化された。
これらの戯曲のうち『日蓮上人記』から『日蓮上人御法海』に至る「日蓮記」の段階は、高祖伝記の脚本化を中心に日蓮聖人一代の雄姿や法力が表現されたが、これ以降は主として役者のための脚本として書かれる比重が増し、その筋立ても日蓮聖人はワキにまわり、日蓮聖人の一生とは別の筋を挿入することによってとっぴな虚構性がいよいよ増幅し、坪内逍遙が「目先本位のたわいなき日蓮劇」と批判したごとき傾向に陥った。
幕末・維新期における演劇刷新の動向に伴い、日蓮聖人演劇も新しい展開を見せ始める。
戯曲は、歌舞伎狂言の近代化へ一歩を踏み出した。
その中心的存在は狂言作者の大御所・河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)であった。
黙阿弥は、安政元年(一八五四)より慶応二年(一八六六)までの一〇年間に四代目市川団十郎らのために生世話(きぜわ)狂言を次々に発表して狂言作者の地歩を固め、明治初期には全盛時代を迎え時代物のほか時代世話(御家物)、世話、松羽目(まつばめ)、活歴、散切物等の領域にわたる戯曲を創作した。
黙阿弥が明治期に入って最初に書いたのが『花椛(はなもみじ)高祖御伝記』であった。
この「日蓮記」は、九代目団十郎のために新作されたもので、伊豆流罪、竜口法難を経て佐渡の流謫生活を送り、やがて日朗の携える赦免状がもたらされて阿仏房・千日尼と別れて帰還する日蓮聖人の風姿を脚色した。
団十郎の日蓮聖人は動きを極力しりぞけた腹芸を中心とし、筋立ても奇瑞を廃し写実的に人間日蓮を描写した。
これは作品も芸も評判はよかったが、従来の「日蓮記」を見馴れた人々からは反感を買い興行成績は悪かったという。
しかし、黙阿弥にとっては、時代物に新しい工夫をこらし新時代に対応した活歴物の創作への転機となった作品であった。
また団十郎も、この「日蓮記」に始まる時代物(歴史物)によって重厚で渋味のある芸風を大成し名優の地位を獲得することになった。
一方、明治一四年(一八八一)一〇月に大阪中座で勝諺蔵(かつげんぞう)(大阪の狂言作者)の『日蓮大菩薩真実伝』が上演された。
これは小川泰堂著『日蓮大士真実伝』を脚本化したもので、奇瑞効験を盛りこみながら世人を救う「日蓮大菩薩」の雄姿を写し出して好評を博した。
八幡宮鳥居の場から佐渡塚原三昧堂の場に至る筋立てを中心に「高僧型」の脚本を踏襲し、黙阿弥の写実的な「日蓮記」とは対照的な内容を提示した。
日蓮聖人に扮した中村福助は、祖師像をつくって開眼し演場の前には二丈七尺の巨大な万燈を掲げて熱演し「福助の日蓮」と評された。
勝諺蔵は同三三年一〇月にも『日出国五字旗風(ひいずるくにごじのはたかぜ)』を中村座にて上演した。
これは田中智学の校閲を得、蒙古襲来にのぞむ日蓮聖人の姿を脚色したもの。
同じく福助が聖人に扮し、雁次郎の北条時宗と船守弥三郎、八百蔵の四条金吾らの顔ぶれで演ぜられた。
明治二〇年代の歌舞伎改良の高まりに伴い、従来の狂言作者に代って知識人が戯曲を書き始めた。
明治二七年五月、東京歌舞伎座にて福地桜痴の『日蓮記』が九代目団十郎の日蓮聖人により上演された。
桜痴は、時代物・活歴物の戯曲に筆を染めた初期の知識人であり、日蓮聖人を正法弘通を任とし奸を挫き邪を破り壮快な言論と剛毅な気象とをもって釈尊に相似するほど一世を風靡する足跡をのこした「希世の英雄」「仏門の一大豪傑」と把握し、従来の「日蓮記」にみられるような法力奇瑞を盛込みつつ鎌倉から佐渡に至るまでの生涯を八幕物にまとめた。
明治三〇年代に入ると、歌舞伎は退潮し新派や新史劇が勃興してゆく。
日露戦争後には文学者が戯曲を書き出すが、その先鞭は西欧文学における戯曲の位相を紹介した森鴎外であった。
鴎外は、明治三七年三月に『日蓮聖人辻説法』を書き、弟三木竹二の創刊した雑誌「歌舞伎」に発表、同年四月には市川八百蔵の日蓮聖人によって歌舞伎座で上演された。
鎌倉小町の大路を場とする一幕物で、蒙古襲来を防ぎとめるために奮起せよと督励する日蓮聖人はワキに回り、信徒の進士善春と比企能本の娘・妙とがとが結ばれるイキな折伏の場面を中心とする。
この作品は「国家の盛衰・政道の善悪」を説きつつ恋の橋渡しをする日蓮聖人を描いているが、情を基調とする性格劇として脚本化した点に、この戯曲の特色がみられる。
このため、日蓮聖人の精神的偉業は掘り下げられず、ただ蒙古襲来に対して国民の奮起を促すだけの「戦争劇」に陥ったとの批評もなされた。
しかし、諦念に立つ抽象美を写し出す鴎外自らの演劇観を表現したもので、役者のための脚本化をさけ演劇のための台本として執筆したところに、従来の「日蓮記」との質的相違を見ることができる。
明治期には他に古定賢正作『新曲日蓮記』、水谷秀葉作『日蓮上人』、山崎紫紅作『日蓮雨乞い』等の作品がある。
大正期に入ると、この演劇のための戯曲化の傾向は一層強まってゆく。
大正六年(一九一七)一月、歌舞伎座で上演された額田六福の『出陣』は、第一次世界大戦が起り日本が対華二一ヵ条の調印をつきつけて中国に出陣した背景の中で発表され、蒙古襲来への出陣を励ます日蓮聖人と出征する青年武士の恋の葛藤を描写したもの。
これは六福の処女作であり、坪内逍遙は「筋、段どりもよい、人物の配合もよい、恋の葛藤もあれば意志の衝突もある」と評したが、秋田雨雀は作者が国家というものに対してどういう思想をもっているか知ることができない、と批判した。
この脚本は、逍遙らの新史劇運動の中に位置づけられるもので、六福はこれ以降『白野弁十郎』等の戯曲を次々に書き、これを演じた沢田正二郎は「時代趣味の常道を歩んでやまない額田氏の戯曲こそ、現今民衆の趣味のもっとも確かなバロメーター」と語っている。
日蓮聖人と戯曲についてふれる場合、どうしても欠かせないのは坪内逍遙の書いた『法難』(大正八年)である。
逍遙は明治三〇年代より演劇革新運動を展開し、文芸協会を結成してシェークスピア劇の上演を推進してきたが、それは『わが国の史劇』(演劇論)と『桐一葉』(戯曲)を同時に執筆した第一期の演劇刷新と、『史劇および史劇論の変遷』を書いた第二期に大別される。
第二期に提起した史劇革新の骨子は、史実踏査による写実的な性格劇の成立、「悲劇」中心の詩劇化にあった。
この史劇論に基づく脚本がまさに『法難』にほかならなかった。
『法難』は、東儀鉄笛の新文芸協会旗揚げ公演用に創作された五幕八場からなる戯曲であり、大正九年三月明治座にて鉄笛の日蓮聖人により初演された。
この作品は、小松原法難がそのまま悲劇になっているとの観点から自ら実地踏査を行い「史から生まれた空想」を主体としながら日蓮聖人の「悲劇的性格」を浮き彫りにしようとした点に特色がある。
逍遙は、日蓮聖人の予言者的態度と革新的態度と破邪顕正的態度を劇化の主眼とし「野に叫ぶ預言者型、権威に反抗する革新者型の聖者にはおのづからして悲劇的性格が伴っており、悲劇的運命が付随している」と述べ、勇往邁進して迫害を招致した日蓮聖人に「豊かな悲壮劇要素」を発見した。
『法難』は、役者のための脚本という枠を超え、逍遙自らの史劇論を具体化させ、しかも日蓮聖人の信仰の力と悲壮劇的性格を打出した新「日蓮記」の創作という意味で重視すべき作品である。
大正期は、一方で日蓮聖人降誕七〇〇年を迎えた気運の高まりがあり、更に田中智学による活発な国性文芸運動も進められていた。
智学作の『船守』や『佐渡』など、聖史劇の脚本化と上演がなされ昭和初期に至るまで大きな影響を与えた。
こうした動向と関連して新史劇の抬動の中で日蓮聖人の戯曲が次々と上演されていった。
高須梅渓作『龍の口の日蓮』(大正五年一〇月・有楽座)のほか、山上ゝ泉作『土牢の日朗等』(大正八年六月)、螢沢藍川作『柳営対面』(大正九年一月)、藤井真澄作『日本第一の智者』、同『孤独の底の日蓮』(大正一四年二月)、岡本綺堂作『出雲崎の遊女』(大正一三年五月)等々が上演された。
なかでも大正一三年一月、新国劇の創立者である名優・沢田正二郎が自作の『折伏の日蓮』を関東大震災後の世相と人心の荒廃を憂え国民の奮起を促す抱負をもちながら、東京浅草公園焼跡に天幕を張って興行を打ったことがひときわ光っている。
沢田正二郎は日蓮聖人に扮し、邪悪の者を痛快に打破る英雄僧の姿を写実的に生々しく演じて好評をえた。
また、翌一四年一〇月には、本山荻舟原作・宇野四朗脚色の『史劇日蓮上人』が七代目松本幸四郎の日蓮聖人により松本幸四郎を日蓮聖人役に配し帝国劇場において上演された。
日蓮聖人の戯曲は、庶民の根強い人気に支えられながら、着実に興行され続けられたのである。
昭和期に入っても、この動きは持続された。
昭和四年(一九二九)二月、中村吉蔵作『予言者日蓮』が東京本郷座で新国劇により興行された。
この戯曲は沢田正二郎の依頼をうけて執筆したもので(沢田の急死で中村哲が聖人に扮した)、逍遙と共に演劇革新に取組んでいた吉蔵は「宗教的偉才が、その時代に対して働きかけた情熱、意志、信仰の強さ、烈しさ、崇高さ」を表現し、人間日蓮の崇高な信仰の姿を描写した。
同五年五月には武者小路実篤作の『日蓮』が東京明治座で上演された。
日蓮聖人には市川左団次が扮し人間日蓮のたくましい信念と情愛の息吹を伝えた。
日蓮聖人六五〇遠忌の盛り上りを背景に、同年一一月立正大学演劇部は「立正劇団」旗揚げ公演を東京帝国ホテル演芸場で行い、逍遙門下の加藤精一の指導により、板垣秀緒作『海人の子の家』を演じた。
更に同六年三月には、六五〇遠忌記念として松居松翁作『日蓮上人』が東京歌舞伎座にて上演された(日蓮聖人役は七代目松本幸四郎)
昭和前半期の戯曲には他に、北尾日大作『実録日蓮聖人一代記』(昭和四年三月)、『虚空蔵菩薩の霊験』(同年六月)、山本勇夫作『日蓮上人』(昭和五年九月)、磯村野風作『流人日蓮』(昭和六年八月)等が書かれた。
戦後、日蓮聖人の戯曲は急速に少なくなった。
しかし日蓮聖人降誕七五〇年に当る昭和四六年に、小幡欣治作『日蓮聖人』が八代目松本幸四郎の主演により明治座で公演され、七〇〇遠忌に際しては同五四年に津上忠作『日蓮聖人』を前進座が日蓮宗の後援のもとに公演。
嵐圭史が日蓮聖人を熱演したのは記憶にあたらしい
ただ全般的に日蓮聖人の戯曲化は質量ともに退潮傾向にあるのは否定できない。
このような傾向に対し、日蓮聖人についての信仰的で芸術性豊かな戯曲を活発に生み出すこと、いわば現代における新「日蓮記」の再生をめざすことが今日求められている。これはテレビ等のマスメディアの発達に対抗しえる演劇活動の再興、という演劇自体のかかえる問題に関連するのみならず、日蓮聖人を広く世に伝えるうえで極めて重要な課題になっている。
《北尾日大『実録日蓮聖人一代記』、星野武夫『現代人の日蓮聖人伝』、『劇に現れたる日蓮聖人』、山上ゝ泉『歴世法華物語』、石川康明(教張)『文学作品に表われた日蓮聖人』》(石川教張)