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河竹黙阿弥

かわたけもくあみ #3751

河竹黙阿弥

かわたけもくあみ

(一八一六-九三)
江戸代末期における歌舞伎狂言作者の第一人者。
近松門左衛門、並木宗輔、鶴屋南北(四代目)と並び称される座付作者として江戸演劇を最後に集大成した。
江戸日本橋に生れる。 幼名吉村芳三郎。 生は初め湯屋の株の売買をとし、のち質屋を営んだ。
早熟な少年期を過ごし質屋の若旦那として遊興生活にふけって、一四歳のときに勘当された。 やがて貸本屋の番頭となって諸書を乱読し芝居を見たりした。
一九歳のとき、父が死去し、いったんを継いだ。 父の持病の脚気を治すため、姉が堀之内の「御祖師様」(妙法寺)に一〇〇日間の願かけをして一は元気になったという話もある。
黙阿弥は、すぐ弟にをゆずり茶番狂言を作り、吉村芳三郎の名をもじって「芳々」とシャレた。
この頃から口上茶番に才能を発揮し始め『朝茶の袋』という茶番集に「蛙の面(つら)へ水」など七番を掲載している。 この知に富んだ才覚が、のちに狂言作者として大成する基礎となった。
やがて二〇歳にて踊の師匠沢村お紋(役者沢村四郎五郎の娘)の縁故で五代目鶴屋南北(当孫太郎)に入門、見習作者となった。
次いで市村座に出勤、甲府への旅興行に参加し「日蓮記』を上演したのち身延山に参詣して江戸に帰った。
しかし病気を患い七ヵ月の見習作者生活を中断、「安楽屋よしよし房」などと称して戯作者になろうと考えたものの、保九年(一八三八)、二三歳にて狂言作者として再出発した。
この年正月より河原崎座へ見習作者として出勤、やはり勝諺蔵と名のり二年間で見習作者を卒した。
保一一年の三月興行では『勧進帳』の稽古を一手に引受け、市川海老蔵らの役者や座一同に認められた。
弟の死でいったん業を継いだが、翌年四月より河原崎座の立役者中村重助に頼みこんで三目の狂言作者になる。
名を柴晋輔(しばしんすけ)と称し、狂言の一幕、二幕目を書いた。
保改革に伴う劇場追放の風潮によって座が猿若町に移転。
二八歳の二代目河竹新七と名のった。
三五歳にて処女作『えんま小兵衛』(『弁鯉滝白旗(のぼりこいたきのしらはた)』の二番目)二幕三場を書き、地獄極楽を対照的に描いた趣向で隣同士の世話場をとらえ好評を博した。
次いで『児雷也豪傑譚話(じらいやごうけつものがり)』や『しらぬい譚(ものがたり)』など柳亭種員(たねかず)の大衆小説を脚色して上演した。
三九歳頃には立作者の地位に立ち、名人役者四代目市川小団次と結んで変幻出没に富んだ演出を試みた。
この習作代のあと、三九歳より五一歳までの期に、生き世話狂言を次々に発表。
『座頭殺し』や『鼠小僧』は大当りを得て江戸中の人気を独占した。
更に『いざよい清心』『三人吉三』『縮屋(ちぢみや)新助』などの名作を書き上げ、いずれも大評判を得た。
この期における世話物は傑作『三人吉三』にみられるように大半がいわゆる白浪物(盗賊を題材にした作品)で、小団次は泥役者、黙阿弥は泥作者と呼ばれた。
これらは、どれも義賊・遊び人・毒婦・無頼漢などを取り上げて封建的秩の矛盾をかかえる幕末の代相や風俗を描いたものであった。
黙阿弥は、三代目沢村田之助のために『いろは新助』『切られお富』を書き、五代目尾上菊五郎(当は家橘(かきつ))には『弁小僧』を書き、それぞれ人気を博した。
黙阿弥は河原崎座が廃座されたのち、市村座、守田座、中村座の三座に出勤し、不動の狂言作者としての地位と名望を確立した。
明治維新を迎えてから明治一四年(一八八一)に至る五三歳から六六歳の期は、黙阿弥の全盛期である。
それ以前の世話物中心から代物へ次第に転換していく脚本が増え、九代目市川団十郎によって代物を、五代目尾上菊五郎によって世話物を書いた。
明治代に入って、黙阿弥は本格的に代物を創作し始めた。 これが明治二年一〇月の『花椛(はなもみじ)高祖御伝記』である。
日蓮聖人が伊豆流罪や竜口法難を経て佐渡に流罪され、弟子日朗の持参した赦免状により阿仏房千日尼に別れを告げて帰還するまでを脚色したものである。 竜口で刀が折れる奇跡は描かれておらず、写実的な内容を貫いている。 とくに雪山に取囲まれる佐渡塚原の庵室にいる日蓮聖人が阿仏房千日尼の世話をうける場面は人味を漂よわせている。 また活歴物(歴史劇)の特色を明らかに示してもいる。
日蓮聖人は七代目権之助(のち九代目団十郎)が扮した。 動作はほとんどしない重厚なしぐさと台詞で、いわゆる「腹芸」を演じ九代目団十郎としての芸風を最初に示したものであった。 ほかに橘の日朗、芝翫の弥三郎、三十郎の弥兵衛が演じた。
坪内逍遙は江戸代の日蓮記に比較して、「前の諸作に比ぶればやゝ日蓮記らしき筋立なり」と評している(「法難に就いて」=「法難』所収・実之日本社)。
これ以後、次々と代物の脚本を書いていく。 『真田幸村』『忠臣蔵十二(どき)』『酒井の太鼓』は、その代表的な作品である。
一方、世話物については、菊五郎によって演ぜられた『髪結新三』などがある。
に、明治代の風潮を敏感に捉えた散切狂言も書いた。
廃藩置県によって浪人となった哀れな主人公を描く『東京日々新聞(とうきようにちにちしんぶん)』や片輪のなおる『三人片輪』や写真を小道具にした『写真の九一』などを書いたが、必ずしも歓迎されなかった。
そこで再び『重盛諫言』といった代物に戻り、更に浄瑠璃の作品に筆を染め『散切お富』を発表したりした。
黙阿弥は、東京の劇場で上演される脚本を一手に引受け、世話物、代物、散切物を舞台にのせていった。
明治八年、守田座が新富座と改称され守田勘弥を中心に活動した新富座代に、黙阿弥も立作者の大立物として円熟した作品を発表し続けた。
世話物狂言では『延命院日当』『河内山と直侍』『湯殿の長兵衛』などの傑作を発表、新時代の風俗を描いた散切物には『女書生』『高橋お伝』『孝子吉』がある。
代物は引続いて団十郎を中心に』『黄門記』『伊賀越実録』があり、これに準ずる御物(お騒動)は『伊達騒動』『加賀騒動』などを執筆した。
更に注目されるのは、彰義隊との戦争を扱った『明治年東(あずま)日記』や西南戦争の翌年、明治一一年二月に上演された『西郷隆盛』を書いていることで代適応への姿勢をもの語っている。
この頃、演劇改良の動きが活発化し、守田勘弥や団十郎を始め依田学海、福地桜痴らがこれを推進した。 黙阿弥は、この動向に消極的であったが団十郎らの意向にそって「活歴」を書き続けた。
明治一四年一一月、六六歳のに一世一代の書き納めとして『島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)』五幕九場の白浪物を書き上げた。 この書き納め狂言を発表した黙阿弥に劇評と歌舞伎新報社より前例のない引幕が贈られた。
黙阿弥は、一引退したものの、なお健在であったから、勘弥や菊五郎などより執筆を頼まれた。
世話物の『新皿屋敷』『浮世清玄』『四千両』、代物の『高』『華山と長英』『伊勢三郎』『関ケ原』などの傑作がある。
黙阿弥という名は、藤沢山遊行寺から明治一四年に贈られた阿弥号である。 隠居してもとのもくあみになって沈黙する、との意味もこめられていた。
しかし黙阿弥は、終生狂言作者の責務を担い通し、「役者に深切、見物に深切、座元に深切」という「三深切」を心得として、温厚と謹厳な人柄のままに江戸期いらいの歌舞伎狂言の脚本作者として一生をまっとうし、更に新演劇への橋渡し役を努めた。
《河竹繁俊『河竹黙阿弥』、山本二郎『河竹黙阿弥』『日本文学史』一〇、『黙阿弥名作選』、『国史大辞典』三巻「河竹黙阿弥」の項》(石川張)

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