近松門左衛門
近松門左衛門
ちかまつもんざえもん
(一六五三-一七二四)
江戸時代中期の浄瑠璃作者、歌舞伎作者。
本名、杉森信盛。
幼名、次郎吉。
通称、平馬。
別号、平安堂・巣林子・不移山人。
近松の伝記については多くの異説があり、正確なことは不明であるが、家系は京都の公家、三条実次を祖とする武士の杉森家の出である。
父は越前の藩士杉森市左衛門信義で、杉森家の宗旨は禅宗であったが、この父信義のときに日蓮宗に改宗した。
父が浪々したため、家族とともに転々としたようであるが、やがて青年時代になって公卿に仕え文人としての教養をつみ、また、その間に浄瑠璃作者宇治加賀掾を知り、劇作家の道へと入っていったものと思われる。
その出生と同じように彼の死もまたなぞに包まれていて、どこでどのようにして死んだのか全く不明で、遺骨が埋葬された寺もあいまいであるが、今日、その墓は大阪谷町の法妙寺と兵庫県尼崎久々知の広済寺にある。
法名は「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)」。また、妻子についても正確なことは不明だが、妻は前述の二寺にある近松の墓に、近松と並んで「一珠院妙中日事信女」と刻まれている。
いずれにしても日蓮宗とはかなり関係の深い立場にあったものと思われる。
更にまた、彼が青年時代に近江の三井寺高観音近松寺(ごんしようじ)で修業したと伝えられる説は信じ難いが、それにしても近松の仏教や古典に関する知識には単なる文人以上の広さが認められる。
日蓮聖人の伝説を初めて本格的に脚色した『日蓮上人記』があり、その他の作品にも多くの仏語がみられる。
たとえば、法華経にちなんだ文句を彼の浄瑠璃作品から一、二あげれば、『出世景清』の冒頭は「妙法華経観世音菩薩、普門品第廿五は大衆八軸の骨髄、信心の行者大慈大悲の光明にあづかり奉る、観音威力ぞありがたき。」と書かれている。
あるいは、『心中天の網島』の道行「名残りの橋づくし」には「一つ蓮の頼みには、一夏に一部、夏書せし、大慈大悲の普門品、妙法蓮華京橋を、越ゆればいたる彼の岸の玉の台に法を得て、仏の姿に身をなり橋、衆生済度がままならば(略)」とある。
《『国史大辞典』九巻「近松門左衛門」の項》