坪内逍遙
坪内逍遙
つぼうちしょうよう
(一八五九-一九三五) 近代小説の先駆者。
演劇の父と呼ばれる。
小松原法難を題材とし戯曲『法難』を執筆した。
幼名勇蔵、のち雄蔵と名のる。
また春迺家おぼろとも称した。
「逍遙遊人」を志とし小説・演劇および教育の革新に一生を尽くした。
明治一八年(一八八五)六月、最初の近代小説『当世書生気質』を書き、人情世態を写実的に描き出し、同年九月『小説神髄』を著して体系的な文学論を打ち出した。
明治三一年までの期間、新史劇の作品を発表し演劇術の改良にとりくんだ。
自ら建議して開講した東京専門学校(のち早大)文学科の学生を集めてシェークスピア研究会を起したのをはじめ、『早稲田文学』を創刊し『桐一葉』などを発表。
ついで近松研究会・朗読法研究会をつくって演劇の合評や技術改良を図り『わが国の史劇』を執筆して国劇の成果を吸収しつつ新史劇を成立させていく立場を提唱した。
他方、明治三二年より五年間、教育刷新をめざした。
早稲田中学の創立に参画し教頭から校長に就任、倫理教育の実践を講義、学問の独立、和・漢・洋の文化的調和、進取の精神的教育を語り『国語読本』などを書いた。
明治三七年(一九〇四)、『桐一葉』が東京座で初演され好評を博し、これ以降演劇刷新運動を再出発させた。
同三九年に『早稲田文学』の再刊と文芸協会の結成を実現、演劇研究所をつくって俳優を養成した。
文芸協会は第一回公演『ハムレット』以来、東儀鉄笛・島村抱月・松井須磨子ら門下生の好演で発展したが、やがて内部分裂をおこして鉄笛の無名会、加藤精一らの舞台協会、抱月らの芸術座、沢田正二郎の新国劇などに分かれた。
逍遙は文芸協会の再建に苦慮し大正二年(一九一三)に解散するに及び後始末をつけた後、著作と翻訳に専念した。
早大教授の立場を退ぞき、シェークスピアの翻訳に取組み、翻案劇を発表するとともに史劇『名残の星月夜』などを執筆、悲劇をモチーフとする新史劇の形成に献身した。
『史劇および史劇論の変遷』は史実にもとずく性格劇を重視した演劇論の集大成であり、悲劇中心の詩劇、史実の踏査による写実的な性格劇の成立とこの新史劇論の脚本化を意図するものであった。
この演劇改革の根本的姿勢から生まれたのが『法難』である。
『法難』の脱稿は、大正八年一一月、六一歳の時であった。
執筆の直接の動機は、鉄笛が無名会を経て新しく組織した新文芸協会の旗上げ公演用に間に合わせるために「咄嗟の作」として「只ふっと書こう」として創作した所にあった。
しかし、その背景にはいくつかの縁が認められる。
第一に逍遙は法華宗の家に生まれ、信仰深い父の唱える題目の声を心底に刻み、母からは『釈迦八相倭文庫』などの草双紙を教えられ、仏壇から『高祖伝』をとり出して読んだことがあり、小松原法難の画面は五〇余年前からの「馴染」であったこと。
第二に明治一九年二月、二九歳の折すでに日蓮宗の機関紙『日蓮宗教報』に「小説を論じて宗教拡張の手段に及ぶ」を掲載し、宗教小説をもって布教する意義を提唱していること。
第三に田中智学と親交を結び、『高祖遺文録』の「高き御教」にふれ、智学の『日蓮劇に関する研究』を読んで小松原法難への理解を深め、また自ら国柱会機関紙『妙宗』に『宗教と演劇』を連載するなど、小松原法難の構想を「醗酵」させる過程があったこと。
第四に、それ以前に上演されてきた日蓮劇の筋立を検討し、それらの作品が「自然味も宗教味も乏しいこと」「今の人の心線に触れる点が殆どない」点を明らかにすることによって、宗教味のある劇詩としての日蓮劇を書こうとしたこと。
第五に執筆直前と脱稿後に「小松原の実地検分」の踏査旅行をし房州方言を採取、史実に即し写実を求める詩材獲得の探訪を実行していること、第六に最大の動機が小松原法難に悲劇性を捉え、「あの小松原事件は、本来がそっくり其儘悲劇になっている」ことが執筆の腹案になっていることである。
これらの諸点はいずれも『法難』執筆の背景と理由を示すものであり、とくに史実から生まれた空想を土台とする劇詩本位の性格劇を重視した演劇論の構想を具体化し、それに宗教味のある悲劇としての宗教劇を作品化するものとして『法難』は書かれた。
この立場から『法難』では、「聖者日蓮の悲劇的運命」を題材とし日蓮聖人の特殊性格を活現することによって日蓮劇の独自的意義を提示しようとしている。
その特殊性格とは「破邪と顕正とを兼ねた預言者」「破壊的であった上に建設的な宗祖」「革新的態度」の三点にあるとしている。
特に「野に叫ぶ預言者型、権威に反抗する革新者型の聖者にはおのづからして悲劇的性格が伴っており、悲劇的運命が付随している」と指摘、必死の迫害にあいながら法華経の行者としての信念を一層熱烈に高めて献身した日蓮聖人に信仰の力を見出し、また殉教者を生んだ悲壮な事実をふくむ小松原法難の悲劇的色彩を描くことにより、性格劇と宗教劇の両面から日蓮聖人の強烈な「対世間的態度」を活現した点に『法難』の特色と宗教的、文学的意義が存在している。
逍遙は、大正一四年一一月、病身をおこして身延山に参詣し、晩年は創作をやめシェークスピア全集の邦訳にとりくんだほか、昭和七年(一九三二)に『阿難の累ひ』『鬼子母解脱』を発表、仏典劇の分野に関心を注いだ。
『法難』が『役の行者』に続く宗教劇の作品における中心的地位を占める点も注目されてよい事実である。
《大村弘毅『坪内逍遙』、河竹繁俊・柳田泉『坪内逍遙』、星野梅耀『劇に現れたる日蓮聖人』、石川康明(教張)『日蓮と近代文学者』、『国史大辞典』九巻「坪内逍遙」の項》