妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

七面山

しちめんざん #99

七面山

しちめんざん


山梨県南巨摩郡にある山。
標高一九八二メートル。
行政区画上山腹一帯は早川町に属するが山上は身延町に編入されていて、堂宇と共に久遠寺の所有にかかる。
その維持・経営には支院住職中から法主によって任命された別当が三ヵ年の任期で当っている。
堂は敬慎院(一般には本社)と称し、身延山の守護神七面女(=七面大明神)を祀る。
敬慎院までは久遠寺から直線距離にして約七キロ、徒歩で約二〇キロほどの道程である。
日蓮聖人は遺文の中で「北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は子山也。 板を四枚つい立てたるが如し」(定一七三九頁)と、七面山をもっぱら身延西谷草庵の地を叙するのに用い、頂上部に大崩崖があるところから「なゝいた(七面)がれのたけ」(定一四三六頁)とも記す。
伝承によれば、草庵から上手に数丁ばかり登った所に大きな石があり、日蓮聖人は散策の時や身延山頂へ登られた折にその大石に上り説法されるのを常としていた。 建治三年(一二七七)九月のころいつものようにそこで法を説いていると、聴衆の中に妙齢の美女が熱心に聴聞していた。 居並ぶ弟子・檀越たちもこの山深いところで見なれない妙麗な姿だと不審に思ったが、一緒にお供をしていた波木井実長も大変いぶかしく思った。 聖人はみなの不審を感じとられ、女人に向って「そなたの姿を見てみな不審を抱いている。 本体を見せてやりなさい」といって、女人の所望に応じてかたわらの花瓶の水を女人にそそぐや、たちまち姿を変じて一丈あまりの竜の姿となって花瓶にまつわり、首をもたげ、恐ろしい姿でなみいる人々をおじおののかせた。 ややあってもとの美しい女人の姿にかえり「わたくしは七面山に住む七面女です。 身延山鬼門をおさえてお山を守る法華経の護法神として、いまかりそめの姿を現しました。 人々が法華経を読み、題目を唱え、至心に私に祈るならば、心のやすらぎと満足をあたえるでしょう」と言いおわるや、七面山の方へ飛び去っていった。 実長は不審をとき、この感激を永く留めておこうと画工に命じてその状を写させた。 その後、聖人入滅一六年後の永仁五年(一二九七)九月一九日、実長は六老僧の一人日朗と共に七面山に登り、七面女を祀ったと伝える。 七面山ではこの日をもって開創の日とし大祭を行っている。 更にまた元亀三年(一五七二)には身延山は武田信玄に攻められたが、身延山の鎮守、七面大明神が霊あらたかにこれを防いだとの伝えも残されている。
史実的には身延一四世善学院日鏡・一五世宝蔵院日叙・一六世琳珖院日整の頃から身延山鎮守七面大明神が育成されたようで、七面大明神が史料的に明らかになるのは近世初頭からである。 ち天正二〇年(一五九二)一二月八日に大坂雲雷寺開山日宝が曼荼羅に「七面大明神」と勧請しているのをその初出として、文禄五年(一五九六)身延一八世妙雲院日賢が「七面大明神宝殿常住之守護本尊也」と認めているところから、この頃七面大明神宝殿が造営されていたことを知ることができる。
身延山略譜』には身延二四世顕是院日要の条に初めて七面山別当の語が見え「七面山別当は法蔵院日照、赤沢妙福寺歴代」と録されている。 この頃から身延山久遠寺は、身池対論をはじめとする不受不施派への効果的な対応などによって、日蓮教団を代表する立場に立っていったが、身延山の守護神である七面大明神の位置もまたそれにつれて高まっていったと考えられる。 この頃、徳川康の側室お万の方七面山に登詣して、女人禁制を解いたといわれることも、七面大明神の威光や霊験が世に喧伝され、七面信仰を盛んにするのに大きな力となったことであろう。
身延二七世通心院日境代の慶安四年(一六五一)には山麓の赤沢と雨畑の両村が山境を争ったことを契機として、七面山信仰上はもとより行政的にも久遠寺の支配下に入ることが認められた。
寛文六年(一六六六)深草の元政は『七面大明神縁起』を著して、日蓮聖人と七面大明神に関する伝説を書いて、七面大明神の本地は吉祥天であると述べ、更に京都深草山上に七面天女を勧請したことを付け加えて、地方にも七面大明神が祠られるようになったことを示している。 延宝三年(一六七五)身延三〇世寂遠院日通のとき、本殿・拝殿・庫裏・客殿等の諸堂が新改築されて堂塔伽藍が整備され、同七年にはの関白鷹司房輔が「七面大明神」の自筆の額を奉献して威徳を鑽仰している。 その後、貞享二年(一六八五)の頃には身延三一世一円院日脱の『身延鑑』が七面伝説を録し、この頃謡曲の「現在七面」がなり、小湊誕生寺二六世日孝も『七面大明神縁起』を著している。 更に享保一八年(一七三三)大野山本遠寺一二世日が『七面本地記』を著して、七面天女の本地を法華経提婆品の龍女であると説いている。
安永五年(一七七六)一〇月一一日、七面山は出火して、堂宇はことごとく灰燼に帰し、参籠の人々は多数焼死するという悲しむべき災厄が起った。 この身延貫首妙乗院日唱は七面大明神を邪神と称したと伝えられ、西谷檀林との間で騒動に発展し、その結果日唱は身延の歴世を除かれて除歴唱師と称された。 代わって貫首となった日はすぐに寂したが、その後を継いだ四七世亮心院日豊は七面山の復興に力を注ぎ、安永九年八月には四間四面の本殿の再建立をなしとげ、明四年(一七八四)から五年にかけて七半・五の拝殿、四・三の幣殿とを再建成就した。その造りはいわゆる七面造と称される一種特有の建築様式をとっている。 そののち七面山は明治初年の神仏混淆廃止、廃仏毀釈等の波をも乗り越えて、人々の篤い七面信仰に支えられ、今日に至っている。
なお、七面大明神は具には末法惣鎮守七面大明神と尊称し、その本地については、吉祥天女・提婆品の竜女・普賢菩薩八幡大菩薩照大神等の諸説がある。
七面山上の眺望はすばらしく、随身門からのご来光・雲海、また富士山等の景は見である。 山嶺には池があり、そこには「池大神」「七つ池」等の伝説が伝えられている。
《森宮義雄編『七面大明神縁起』、宮崎英修『日蓮宗の守護神』、里見泰穏「七面信仰の系譜と展開」『近代日本の法華仏教』、同「日蓮宗と俗信仰との交渉」『中世法華仏教の展開』、『遺文辞典』歴史篇「七面山」の項、『日蓮辞典』「七面山」の項、『日蓮聖人典』(雄山閣)「山梨」の項》
(林是晋)

【補記】日唱は身延及び飯高檀林等を除歴されたままだったが、平成二八年(二〇一六)二月一日付で、身延山久遠寺九二世内野日総代に復歴された。

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