妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日脱(一円院)

にちだつ #2921

日脱(一円院)

にちだつ

(一六二七-九八)一円院と号し、雅・遊明子とも称した。
寛永四年加賀(石川県)石川郡の逸見氏(一説には萩野氏)の子として生まれた。
長じて同の本是院日理の弟子となり、下総飯高檀林に遊学した。
衣食共に淵苦し、窮乏に堪えつつ精進すること二〇年にして、行学の二道大いに成果を挙げ、山科檀林の第五世の化主となった。
また京都の立本寺二二世を継ぎ、寛文の末には飯高檀林第一八世の主となった。
更に、延宝七年(一六七九)二月身延山第三〇世寂遠院日通の遺言により、同山の第三一世に選定されたが、日莚を始めとする恵性院・法性院・鏡像院ら一山の衆徒の中には、「宗門先哲古老数多いのにもかかわらず、あえて末学の日脱一人を推定することは大いに不可である」として遺言状に反対し、賛否の両派に分れて互いに譲らず紛糾して、ついに寺社奉行へ訴状を提出し争うことになった。
この結果、一〇月に至り判決が下り遺言状の通り日脱側が勝って、反対派は配流追放に処せられるに至った。
こうした後住問題の一件のあと、入山した日脱は身延の興隆に力を注ぎ、祖山全盛代を見るに至った。
ち貞享年間(一六八四―八八)に八幡宮の古跡へ祈祷堂を建立したのを始めとして、山内各所に一時に三六の坊舎を建造し、昼夜に読経をせしめ天下安全妙法弘布を祈祷せしめ、前の荘観を呈した。
また貞享三年(一六八六)と元禄の二にわたり西谷檀林所化寮二棟を増築して学侶の養成につとめた。
更に弟子の日湛に院代を命じて山務を扶けさせたが、これは身延山における院代の始めとなった。
元禄四年(一六九一)には池上の日玄と共に悲田派を訴え、勝訴となり悲田派は禁止された。
同六年八月身延の伽藍を復興一新した功により東山皇から紫衣を賜り、上洛して皇を拝した。
これは身延賜紫参内の初めとなったのである。
また桑名城主松平越中守の母養仙夫人の資縁をえて「の鐘」を設けたり、二王門の移転改築を行っている。
こうした数々の績により、後を継いだ日省・日亨らと共に身延山第三の中興と称せられている。
元禄一一年九月二二日、谷中瑞輪寺で寂した。七二歳。
なお弟子に日忍・日勤・日聴ら多くあり、その法脈を脱師法縁という。
著書には『一円記』『不受不施論記』各一巻がある。
駿河富士妙法寺、武州久良岐郡常清寺、甲州小原島一円寺、飯野了円寺では日脱を崇めて開山としている。
《『本化別頭仏祖統紀』、『身延山史』、『日蓮教団史概説』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『一円院日脱上人遺芳』、『日本仏教人名辞典』「日脱」の項、『史大辞典』一一巻「日脱」の項

← 事典トップ