日鏡(善学院)
日鏡(善学院)
にちきょう
(一五〇七-五九)
字は印英、善学院と号す。
初め日現と称して、日鏡の名は天文五年(一五三六)三〇歳の時に著した『章疏目録』から見えるが、その後も少なくとも年代の明らかな筆写本の残る三六歳の天文一一年までは、あるいは日鏡と書し、または日現と署名していて一定していない。
もっぱら本尊や余乗関係には日鏡の名を、宗乗等の教学法門に関しての場合は印英・善学・日現等を用いているところから、日鏡の名は表向き一般の場合に用いたのかとも考えられる。
日鏡は永正四年甲斐国山梨郡に生まれ、その姓氏を詳らかにしない。
幼少にして身延一二世日意の門に投じ、天文一三年一之瀬妙了寺第八世より、法兄日伝の譲りをうけて身延一四世に晋んだ。
妙了寺の在住年数は明らかではない。
日鏡は朝・意・伝の中興三師の後を承け、日伝の後見をうけつつ、よく山務を督し、翌天文一四年には祖師堂宮殿を造営している。
日鏡は才識伶敏、天性信地確乎として堅固であって、武田信玄の家臣原美濃守(入道日入)信如、小幡山城守(入道日乗)信貞は深くその徳行に信伏し、信濃国海津城下の日蓮聖人の直檀と伝える法諱蓮乗久龍氏の宅趾へ蓮乗寺を建てて日鏡を開山に請じた。
徳川家に対しては、日鏡は家康がまだ小身微禄のころ開運の曼荼羅を授与してその武運長久を祈り身延山と徳川家との結縁をなしたといい、のちに家康は関八州甲信の地を領するに及び身延山に詣でてこれを謝したという。
天文一九年には日興門流の甲州谷村の東漸寺二世教運房日感が日鏡の学徳に伏して寺と共に転派し、身延末となっている(東漸寺縁起には日城が身延日伝の教化にあって改派したとある)。
同二一年には波木井にあった八幡宮を片隈沢に移し、また甲斐国篠原(今の竜王町)の地にも八幡の神祠があったのを、弘治年中(一五五五-五八)日鏡はその勝地を相して寺を造り、扁して八幡山法久寺と称した。
更に西八代郡市川三郷町の妙現寺はもと真言宗に属していたが日鏡の改宗させるところという。
日鏡は身延の猊座にあること一三年、後を日叙に託して弘治二年五〇歳の時西谷に庵室を設けて隠棲し、その号をとって善学院と名づけ、所化を集めて三大部を講じた。
これがのちの西谷檀林の初めである。
西谷檀林はのち慶長九年(一六〇四)身延二二世日遠によってその基が築かれ、爾来明治七年(一八七四)の廃檀に至るまでの前後約三〇〇年間、宗門教学の発展と法器人材の育成に多大の寄与と貢献を及ぼしていく。
日鏡はまた隠居所として法雲坊をも創立している。
法雲坊には永禄五年(一五六二)霜月二日の一五世日敍による「鏡師御隠居所の事。相続あるべきため、御存日の時江州一国の宿坊定め置かれ(略)」という記録が残されている。
これは身延における宿坊制度の史料的初見であり、日鏡は自ら草創した法雲坊へ、その維持、相続のために江州一国門徒の宿坊を定め置いたのである。
ただし法雲坊はその後、樋沢坊に合併して今はない。
日鏡は閑居する事三ヵ年、永禄二年四月一五日五三歳をもって寂した。
日鏡の著作としては『身延山史』および『日蓮宗宗学章疏目録』によれば『朝集抄』一巻と『逆修講法則』一巻がそうであるとするが、身延文庫ではそれぞれ日鏡の写本および所持本の扱いをとっている。
現在身延文庫には著作としては『耀師一三回忌法則』と『章疏目録』が、そして天台学関係の写本多数が架蔵されている。
近世に入り諸檀林が整備拡充されるに伴い、檀林を中心とする学閥が形成され、中世の門流にとって代る近世教団を組成する原動力となっていった。
それが法類、法縁とよばれるものである。
そうした中にあって西谷檀林出身者は日鏡の流れを汲むので鏡師法類といい、現在鏡師法類の縁寺は、山梨県の二二〇余ヵ寺、静岡県の五二ヵ寺、長野県の二二ヵ寺と合計三〇〇ヵ寺を数えている。
《林是幹『西谷檀林略史』、『日本仏教人名辞典』「日鏡」の項》