妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日通(寂遠院)

にっつう #3113

日通(寂遠院)

にっつう

(一六一四-七九)
字は玄海、寂遠院と号す。
京都の人、俗姓松田氏
八歳の京都本隆寺に出家し、のち妙伝寺一四世日勇に師した。
日勇は寛永二〇年(一六四三)に山科檀林を創設しているが、日通は寛永一七年鷹ケ峰に初めて『集解』をじ、また学徒の請によって更に『玄義』をじ、やがて慶安元年(一六四八)日勇の命により山科に玄文両部をずること八ヵ年に及んだ。
明暦元年(一六五五)日勇の後を継いで妙伝寺一五世となり、傍ら山科檀林に玄文をじた。
山科檀林は日勇がその基礎を築き、日通はその不備を補い、修営・蓄財大いに勉めたのである。
寛文元年(一六六一)山城葛野郡下山田に地を相し、草堂を建てて真如寺と号し、翌二年鷹ケ峰檀林の請に応じて『文句』をじた。
たまたまこの飯高檀林は主職を欠き、後職について衆議論駁容易に決しなかったが、日通の名が出るに及んで紛議は収まったという。
日通はその徳を敬慕する門下七〇余人を具して飯高に赴き第一五世化主となった。
従学の徒四方から集まり、日通は浮華を制し、饗宴を禁じ専ら素朴清貧を旨として解に努めたので飯高檀林の声望頓に下に揚った。
日通は別に一谷を開き松和田谷と称し、松和軒を創して玆に住した。
更にまた『文句』『止観』を講ずるの間兼ねて名目・集解・観心の諸部をも授した。
文八年池上本門寺の二〇世となり、大いに修営に努めて寺内の観を改め、次いで同一二年身延山三〇世に晋んだ。
日通は身延山に在ること八年、この間大いに造営に努め、七面山の伽藍整備等に力を尽くし、延宝七年(一六七九)谷中瑞輪寺に退いて病を養い、同年二月一一日六六歳をもって寂した。
その門下には本是日観・智寂日省・遠沾日亨・久成日相・寂耀日啓・羪法日成・羪遠日厳等俊傑が甚だ多かった。
後年日通の法脈を通師法類と称し、更に堀之内・一ノ瀬・千駄ケ谷・雑司谷等の各法類が分張し、また潮師法類もこの法脈より生まれている。
因みに京都山科檀林は日通の師日勇を開祖とするところから、この法脈を山科法類または勇師法類という。
《『日本仏人名辞典』「日通」の項》

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