日唱(妙乗院)
日唱(妙乗院)
にっしょう
(-一七七七)
字は守慎、妙乗院と号す。
生年不祥。
下総国(千葉県)に生まれ、飯高檀林に学んで明和元年(一七六四)に檀林一二六世化主。
安永三年(一七七四)江戸日暮里善性寺一八世から身延山久遠寺四六世に晋んだ。
ところが安永五年一〇月一日、七面山の堂宇が、悉く焼失し、参籠の人々が多数焼死するという悲しむべき災厄に端を発した騒動により、西谷檀林方と争い、その結果、身延の歴世を除かれて、今に除歴唱師と称されている。
当時の記録は西谷檀林方が自分達に都合のよいように著したものだけが残り、日唱方の記録はまったく残されていない。
従って残っている記録だけでは事の真相を正しく把握することは因難であるが、一応その記録によれば事件の経過は次のようである。
七面山焼失の災厄に対して日唱のとった態度・主張は檀林方の強い怒りをかい、騒動に発展して双方はそれぞれ相手の非を寺社奉行に訴え出るところとなった。
そこで両者は江戸へ出府し、安永六年五月五日と六日の両日にわたって寺社奉行所において寺社奉行牧野越中守など立ち会いのもとに両者の対決、対論が行われた。
檀林方は、日唱は七面明神を邪神と称し、七面社の焼失をかえって悦ぶかに見え、曼荼羅の書式が異なり、日唱は禁制の不受不施の疑いがあるなどと責めた。
これに対して日唱は、七面社焼失はこれを悲しんでいるなどと弁明したのであるが、特に曼荼羅書式の異例については弁解に苦しみ、遂に口を閉ざしてしまったという。
しかしこの記録は一方的なものなので、日唱に不利な面ばかりが強調され、奉行方の発言も檀林側に有利に展開されている。
こうしているうちに、日唱はまだ審査中の五月二九日、心労・落胆の上からか、老年のせいもあって牢死してしまった。
日唱は不受不施邪流として死後重刑に処せられ、檀林化主日遵は一山騒動・徒党の罪により三宅島へ遠流、その他の関係者もそれぞれに処罰されて事件は落着した。
その後、西谷檀林方の人々は文政年間に赦免せられた。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、岡教邃「身延貫首日唱聖人の不受不施事件」『大崎学報』二六号、林是晋「日唱の身延除歴事件について」『棲神』四九号》
【補記】日唱は身延および飯高檀林等を除歴されたままだったが、平成二八年(二〇一六)二月一日付で、身延山久遠寺九二世内野日総代に復歴された。