妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

お万の方

おまんのかた #2

お万の方

おまんのかた

(一五七七-一六五三)
養珠院、養珠夫人とよばれる。 将軍徳川康の側室で、紀伊徳川の祖頼宣、水戸徳川の祖頼房の生母。
本宗の熱心な信徒で徳川代初期の大外護者、その功績は著しいものがある。
彼女は正五年上総勝浦城の正木左近大夫邦の娘として生れ、のちに伊豆加殿(かどの)に移り、伊豆河津の城主蔭山長門守利広の養女になったと伝えられる。
加殿には日昭門流の妙国寺があり、法華信仰が広まっていた模様で、蔭山氏も妙寺の信徒であった。 蔭山利広は法号を誠証院日景といい、没後玉沢妙法華寺に葬られている。 このことから、お万の方は幼少より法華経に結縁していたと考えられる。
文禄二年(一五九三)一七歳、縁あって徳川康に仕え、その美しい容姿と誠実な人がらから深く愛され、晩年の康に最も寵愛された女となった。
その美貌については「お万、髪の毛、七尋、八尋、三つつなげば江戸まで届く」と俗謡にまでも歌われたという。
慶長三年(一五九八)二二歳の養父母を喪い、以後深く教に帰依し、追善の誠を捧げ、僧の供養をおこたらなかった。
慶長九年、心性院日遠は三三歳の若さで身延山久遠寺に晋山したが、お万の方は日遠の行学兼備の高名を聞き、深く帰依していくようになったのである。
慶長一三年、康により江戸城中で常楽院日経と浄土宗との法論が命ぜられた。
対論の前夜、日経は暴徒に襲われ法論不能となったが、幕府は法華宗を負とし、全国の日蓮宗諸寺に念仏無間の文証なきことの誓状を出させた。 これを聞いた身延日遠は直ちに家康に抗議し、浄土宗との再対論を求めたが、康の怒りにふれ駿河安倍川で磔刑に処せられんとした。
これを知ったお万の方は、今こそ法華経の大とばかり、日遠と共に法難に殉じようとして康にその覚悟を伝えた。 さすがの康もお万の方信心の固さにうたれ、日遠を許したのである。
この話は聴にも達し、後陽成帝はお万の方信仰えて首題の七字を大書し、彼女に送っている。
その後、日遠は刑余の身をはばかって大野に隠棲したが、お万の方は息子の紀州大納言頼宣と水戸中納言頼房に命じて大野に大伽藍を寄進させた。 これが今の本遠寺である。
以後お万の方の本宗外護の丹誠は厚く、聖人の霊蹟復興に尽力し、新寺建立に励んでいく。
元和二年(一六一六)康がなくなると髪をおろして養珠院と号した。 四〇歳である。
寛永一九年(一六四二)には師日遠の遷化にあい、遺骨を奉じて大野に葬った。
次に、養珠夫人の外護の功績の一部をあげると、六老僧日持上人の遺蹟松野の蓮永寺を駿府城の東北に再興し、寂照日乾を開山として発展させ、身延山久遠寺・池上本門寺・和歌山感応寺を始め主な寺に堂塔伽藍を寄進して寺観を整備し、日蓮宗の徳川代における発展の礎を作った。
寛永一七年には、それまで女人禁制であった身延七面山に、「女人成仏の法華経守護の七面女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずはない」と、白糸の滝で七日の水ごりをとって、初めて女人として山頂をきわめた。 七面山女人踏み分けの祖とされるゆえんである。
承応二年(一六五三)八月二一日江戸紀州邸に七七歳の生涯を閉じた。 遺骨は遺言により大野山本遠寺の師心性日遠の所の傍らに葬られている。 法号養珠院妙紹日心大姉。
紀州頼宣は和歌山に養珠寺を、水戸頼房は太田に蓮華寺を建て、母の菩提を弔っている。
日蓮宗の歴史に忘れることのできない代表的女信徒であろう。
《日潮『本化別頭仏祖統紀』二五巻、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、同「養珠院と英勝院」『続・日蓮宗の人びと』、『日蓮宗の本山めぐり』、『日蓮辞典』「養珠院」の項、『国史大辞典』二巻「お万の方」の項(二)

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