伊豆法難
伊豆法難
いずほうなん
日蓮聖人四大法難の一つ。五義の教理の整理と四恩の表明、行者の自覚を表明した重要な転換点である。
日蓮聖人が弘長元年(一二六一)五月一二日幕府によって逮捕され、伊豆(静岡県)に配流された難をいう。
その背景には『立正安国論』の上申があり、また『守護国家論』の論調も法然浄土教へのはげしい批判が展開されている。
念仏者達は松葉谷の草庵を襲い、更に彼らは日蓮聖人のことを謗法・邪見・悪口・犯禁のものと貴人に讒訴(『論談敵対御書』)したことで、幕府は日蓮聖人を捕え、土地の地頭伊東八郎左衛門の預りとして伊豆の伊東へ流罪にした。
なお『立正安国論』の主張が法華経信仰の確立と浄土教攻撃に重点がおかれていたにしても、結果的には幕政批判ともなって日蓮聖人を流罪とした理由ともなろう。
さて伊東に流された日蓮聖人を、地頭伊東氏は幕府の命令によって日蓮聖人の世話をしたり、かくまったりしてはならぬと領内に厳しく布告していたようであり、伊豆においても当初、念仏者の迫害は引続き繰返されたようでもある。
しかし日蓮聖人は幸にも川奈にすむ漁夫の弥三郎夫妻の手あつい庇護を受けかくまわれることになった。
このころ地頭伊東氏は病床に臥し薬餌・祈祷などその療養に八方手をつくしたのであるが、はかばかしくなく、病は重くなるのみであった。
たまたま日蓮聖人が川奈にかくれていることを知り、病気平癒の祈願を依頼してきたので日蓮聖人は法華経を信ずるならば祈祷をしようと誓約させて祈った。
この祈りによって八郎左衛門は快癒したので、その御礼として伊東の海中から網にかかって揚ったという立像の釈迦仏を献じた。
この立像仏は以降、日蓮聖人生涯の随身仏として奉持されることとなるのであるが、日蓮聖人は地頭の好意により川奈より伊東に移り、その外護のもとに配所生活を送った。
同地に在ること一年有余にして、弘長三年二月二二日流罪をとかれ鎌倉に帰る。
なお、従来より、弘長元年の日蓮聖人の捕縛と伊豆への配流は、一様に五月一二日の出来事とされてきたが、『論談敵対御書』によれば、聖人逮捕の時間を記して「五月十二日戌時」(夜の八時前後)とあって、深夜におよぶ伊豆への渡海は困難であることに加え、翌一三日の出来事として、聖人は「日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし」(『神国王御書』定八九二頁)と回想されており、また『一谷入道御書』では「去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十三日に御勘気をかをほりて、伊豆の国伊東の郷というところに流罪せられたりき」(定九八九頁)と記されているところから、伊豆法難は一二日夜の逮捕に始まり、一三日昼間に鎌倉市中引き廻し(或いは船出に向けての道中をいうか)、ついで配所への進発、伊東着船が一三日に断行されたとも考えられている。
《高木豊『日蓮とその門弟』、川添昭二『日蓮―その思想・行動と蒙古襲来―』、岡元錬城『日蓮聖人―久遠の唱導師』、同「日蓮聖人と法難」、『日蓮聖人大事典』(国書刊行会)「日蓮聖人の生涯」「日蓮聖人と法難」の項、『日蓮辞典』「伊豆法難」の項、『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「静岡」の項、高橋俊隆『日蓮聖人の歩みと教え』鎌倉期》。