一谷入道
一谷入道
いちのさわにゅうどう
(-一二七八)
佐州雑田郡石田郷一谷村(新潟県佐渡市佐和田町市野沢)に居住していた名主階級の入道。
さわの入道ともいう(定一五四七頁)日蓮聖人の檀越。
所伝によれば姓名を近藤小次郎清久といい、本間六郎左衛門重連(-一二九六)の配下であったようである。
日蓮聖人は文永九年(一二七二)四月七日以降、塚原の三昧堂よりこの一谷の地に移されてから赦免離島に至るまでの二年間、入道の宿を謫居とした。
聖人がこの地に移ってからも身命の危険はしばしばあったようで、「入道の堂のらう(廊)にていのちをたびたびたすけられたりし事こそ、いかにすべしともをぼへ候はね」(定一五四七頁)と、一谷での生活を述懐し、入道への感謝を述べている。
入道は阿弥陀堂を造り持つ熱心な念仏者ではあったが、聖人の配所の生活を目のあたりに接するうち、内心は聖人に心を寄せていたようである。
聖人は入道との約束に従って法華経一〇巻を送ったが、入道が念仏者であることに配慮して直接送らず、入道の女房宛てとした。入道の死後は弟子学乗房日静から墓前において法華経を読誦してもらうよう指示している(定一五四七頁)。
これらの文から推して、一谷入道よりその女房尼の方が法華の信心が強かったようである。
聖人はこの地で『観心本尊抄』の述作や、初めて大曼荼羅本尊を図顕するなど、思想・教学上最も重要な期間を一谷で送っている。
のち一谷の草庵には妙法華山妙照寺が建立されている。
その寺伝によれば、開山を日蓮聖人、開基を学乗房日静(一二二二-一三〇一)として妙照寺の二世に列し、一谷入道は開基檀越として近藤伊予(守)清久の名を挙げている。
一谷入道の法号は法妙院清久日学上人(弘安四年=一二八一、二月一三日寂)といい、女房尼を妙法尼御前(弘安五年二月一六日寂)と伝えているが、入道の寂年及び行跡についての信憑性の高い資料等は見られず、一谷入道と本間重連との関係、中興入道と学乗房らとの関係については、いずれも伝承による所が多く今後の研究を要す。
《『遺文辞典』歴史篇「一谷入道」の項、『日蓮辞典』『昭和新修』別巻「一谷入道」の項》