本間六郎左衛門重連
本間六郎左衛門重連
ほんまろくろうざえもんしげつら
(-一二九六) 法号は蓮性房日永。
山城入道ともよぶ。
北条一門である武蔵守大佛宣時の家人で、宣時の領地である佐渡の守護代を務めていた。
本間氏は奈良時代相模(神奈川県)の海老名の国分寺を中心とする豪族海老名氏の一門で、能忠が依智郷(厚木市)に分れて初めて本間姓を称した。
現在、本間系図には数種の異説があるが、佐渡に入島した発端は、承久の乱による順徳天皇(一一九四-一二四三)の配流とされ、能忠の子能久は当時佐渡守に任ぜられたともいい、能久の子頼綱が承久三年(一二二一)に順徳天皇を守護し佐渡へ下ったともいわれる。
この本間の子孫に重連がいる。
重連は依智と佐渡との間を事あるごとに往復していた。
『種種御振舞御書』によれば、文永九年(一二七二)正月一六日の塚原問答のとき、日蓮聖人は重連に対し、軍が起きるから鎌倉へ帰ることを勧めたが重連はそれに応じなかった。
しかしその予言の的中によって重連は帰伏を誓ったといわれる。
文永一一年に日蓮聖人が著した『法華行者値難事』に、武蔵の前司宣時が「依智六郎左衛門尉」に与えた文永一〇年一二月七日付の下知状の全文が記されている。
これによって重連が日蓮聖人に私にその全文を披露したことが窺われ、重連の聖人に対する信頼関係の密なることが知られる。
伝承によれば、永仁四年(一二九六)二月一九日寂という。
《『遺文辞典』歴史篇「本間の六郎左衛門」の項、『日蓮辞典』「本間氏」の項、『昭和新修』別巻「本間重連」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と本間重連」の項》