塚原問答
塚原問答
つかはらもんどう
文永九年(一二七二)正月一六日、日蓮聖人佐渡最初の謫居地塚原で行われた諸宗との問答をいう。
聖人が文永八年一一月一日より塚原三昧堂で流謫の生活を始めてから後、ひそかに佐渡在住の僧侶らによる日蓮聖人殺害計画が企てられた。
その間の事情は『種種御振舞御書』(定九七一-九七六頁)に詳しい。
日蓮聖人の鎌倉での評判を聞いた佐渡の国の念仏・禅・律等の各宗の僧侶達は、長老である唯阿弥陀仏、生喩房、印性房、慈道房らを中心として数百人が集まって評議し、「阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪智識」である日蓮をこの国に生かしてはおけない、射殺してしまおうと談合し、守護代の本間重連にその旨を申し出た。
重連は「上より殺しまゐらすまじき副状下りてあなづ(蔑)るべき流人にはあらず。(略)それよりは只法門にてせめよかし」(定九七三頁)と厳重に申し渡した。
そこで日蓮聖人と法論を交すこととなり、諸国に檄をとばして学僧を集め、日蓮聖人が当地に来てから二ヵ月余り経た正月の一六日、塚原の堂前の大庭やその周辺の山野に、佐渡はもちろんのこと越後、越中、出羽、奥州、信濃の各方面より数百人の法師が浄土三部経や止観等を携えて雲集した。
本間重連兄弟一家とその一門は検分を兼ねて警備に当り、騒然とした中で問答は開始された。
日蓮聖人にとってこの問答は「鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもはかなきものども」(定九七四頁)としか見えず、彼らの言は自語相違し、あるいは経文を忘れて論をいうなど、聖人の相手になることはできなかった。
聖人は「利剣をもてうり(瓜)をきり、大風の草をなびかす」が如く諸宗を論服させてしまったのである。
もとは日蓮聖人を屈服させ、島民に邪僧無智の犯僧であることを知らしめようと企てられたこの問答が、却って日蓮聖人を偉大にさせ、法華経を島民に浸透させる結果となった。
ある者は念仏が誤りであったことを悟り、また、その場で袈裟や念珠を捨てて念仏を申すまいと誓言する者もあった(定九七五頁)。
この問答を契機に、島民の間で日蓮聖人の信者が激増していったのである。
法論が済んで重連も帰ろうとした折、聖人は重連を呼び止め「只今いくさ(軍)のあらんずるに、急ぎうちのぼり、高名して所知を給はらぬか」(定九七五頁)と鎌倉に軍が始まろうとしていることを告げた。
重連を始め念仏者達はその予告を怪みながらも帰っていった。
ところが翌二月一八日に船が着き、鎌倉と京に軍が起ったことを知らされた。
これが北条一門の内証「二月騒動」(二月一一日)であった。
重連はその夜、一門を挙げて出陣したが、出発前に「たすけさせ給へ、去る正月一六日の御言いかにやと此程疑ひ申しつるに、いくほどなく三十日が内にあひ候ひぬ」と驚き、「永く念仏申し候まじ」(定九七六頁)と悔い誓った。
この予言の的中で、投獄されていた弟子達は赦されることとなり、また島の人々は日蓮聖人に対し益々畏敬の念を懐き、日蓮聖人の教えとその高名は急速に島全体に弘まっていったのである。