日宗新報
日宗新報
にっしゅうしんぽう
明治二二年(一八八九)一月「日蓮宗教報」を「日宗新報」と改称、河原銀蔵発行人となり、東京府荏原郡池上村(東京都大田区)において創刊、当時における日蓮宗の教誌的存在であり、報道機関紙であった。
同二八年一〇月加藤文雅その経営を担当し、読者層の小範囲であるにもかかわらず毎月三回発行、よくその機能を発揚した。
のち加藤文雄発行人となり新知識をもってこれが経営に当ったが、信仰紙としては大正三年(一九一四)山田三郎・小林一郎ら設立の法華会が月刊誌「法華」を刊行し、次いで大正五年一二月、宗務院が「宗報」を発行することとなったので、宗門と直接のつながりである宗門報道紙としての重要部門を滅失するに至った。
その他、各地信仰集団よりそれぞれ機関紙が発行されるなど諸種の事情が重なり、昭和二年(一九二七)三月をもって三八年間にわたる長い歴史を閉じ、廃刊の已むなきに至った。
ここで日宗新報創刊の経緯ならびに宗門とのつながりについて触れると、明治一三年「妙法新誌」が発行され、同一八年一二月「妙法新誌」を合併して岡田彬発行人となり、日本橋蛎殻町において「日蓮宗教報」が創刊された。
これについて宗務院は同年一二月二一日付番外達「本宗諸達ヲ日蓮宗教報ニ掲示スル件並ニ同報ニ関スル諭告」を全寺院宛に発令した。
「今般日蓮宗教報発兌ニ付自今本宗諸達及ビ広告共渾テ該教報ヲ以テ広達候條寺院ハ一般ニ必ズ購読致スベク、蓋シ教報ノ趣旨タルヤ宗義ノ要旨ヲ簡易ニ説示シ、俗衆ヲシテ信解倍増セシメ、且ツ全国中本宗ニ関スル事情ハ洩サズ記載シテ自他ノ便益ヲ得セシムル者ナレバ、本月三日刊行第一号教報配附方法書ニヨリ各寺院檀信徒ヘ精々勧諭シ購求被閲候様取計ヘタク此段相達候也」以上は諭告の全文であるが、なおこれに併せて同日付を以て録司(現在の宗務所長同等職)に対し番外達が出ている。
その要旨は「昨一七年大会議ニ提案シタ予算ノ歳入歳出ヲ比較スルニ全体ヲ通ジテ五分ノ一ノ歳入不足デアル。増課モ不可ト考エラレルノデ本院ノ費用ヲ節減シテ不足ヲ補ウト思ウ。依テ明治一九年一月ヨリ本院ノ布達及ビ報告ヲ今回発行ノ日蓮宗教報ニ掲載配布スル。教報毎号代価ハ各地録所(現在の宗務所)ノ費用中ヨリ支弁シ、一葉代金二銭郵税一銭ヲ添エ本院会計課へ前金ヲ以ツテ贈納スベシ。郵券代用苦シカラズ」というのである。
しかるに翌一九年四月八日付番外達、録司宛によれば早くも購読料の滞納とその整理に関する督促の警告であり、越えて二一年一二月一五日番外達、録司宛が発せられたが、次に記すように今述べたものと同意のものである。
即ち本年九月社員を更迭し、社務も勉強し、体裁も改良したから、滞納を整理し、かつ檀信徒に対し一段と購読を勧誘してほしいと述べられている。
このような経過をたどって、同二二年一月「日蓮宗教報」は「日宗新報」と改称し新しく発足した。
なお「日蓮宗教報」には本宗以外日蓮系他宗門の布達や行事等が掲載されていた。
「日宗新報」と改称後も、同二五年八月二五日、二六年一一月七日、三〇年一月二一日と相次いで番外達が発せられている。
その一つを記せば「日宗新報ノ儀ハ本宗ノ機関デアツテ布教上欠クコトノデキナイ要誌デアルガ、誌料滞納ガ尠カラズアルノデ維持上困難ヲ来シテイル。至急コレヲ整理シ、尚今後ハ前金トシ、且ツ購売者ヲ勧メルヨウ」にとの趣旨で、何れも教報の時と同じことが繰返されていた。
「日宗新報」は教報整理の後を継承し、幅狭い読者層を相手に幾多の難関を突破、昭和二年まで長期間にわたり刊行された。近現代日蓮宗教団史を知る必須文献である。
《「妙法新誌」、「日蓮宗教報」、「日宗新報」、『日宗現行法規提要』奥書、(明治三一年日宗新報社版)、、牧口泰存・増田海円共編、『現行日蓮宗法令』(明治三八年版)》