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法華神道

ほっけしんとう #3867

法華神道

ほっけしんとう

法華経の開会の思想と教理をもって、わがの神々を仰ぐことをいう。
特に中心になるものは三十番神である。
この三十番神信仰を一般に法華神道と呼んでいる。
三十番神信仰は神道・仏教の両方にあるが、仏教での起源は最澄が比叡山で日本諸国の神々を勧請して守護を請うたことに始まるとされる。
その後、神々が整され一日ごとに当番の神があてられ、平安代の末ごろから一般に弘まっていった。

三十番神が日蓮宗に受容された起源を明すものに二説ある。
ち日蓮聖人(一二二二-八二)に始まる説と、日像(一二六九-一三四二)によって始められたという説である。
また日蓮聖人説にも更に二説ある。
本化別頭高祖伝』『別頭統紀』などで説く、聖人が比叡山に遊学中に三十番神が姿を現したといういい伝えと、『兼益記』『蓮公薩埵略伝』などで述べる。
聖人が神道の宗家吉田兼益から三十番神を相伝したという説である。
一方、『真流正伝抄』『鎮守勧請覚悟要』『当家相伝大曼荼羅事』『龍華秘書』『本迹問答十七ケ条』などでとく日像説である。
しかし、前者の日蓮聖人説は信じ難く関西開の日像のからとみられる。
勿論日像にしてみても聖人の『立正安国論』の神天上思想をもって、当時比叡山で信仰されていた三十番神を日蓮宗内に取り入れることによって、神祇信仰の盛んな京都での布教・信仰の円滑化と融和をはかったのであろう。
いずれにしても室町代に入るとたちまち団全般に拡がったようで、中山富士門流にも浸透するようになった。
しかし明応六年(一四九七)二月、の神祇大副吉田兼倶は妙顕寺・妙本寺・本国寺・妙蓮寺に対し、本宗勧請の三十番神について質疑状を発した。
この質疑状に対して日具の「比当流独歩の稟承、他人不共の秘曲」とする答に感じた兼倶は賀札を送って法華宗勧請の三十番神を公認した。
妙本寺は「神慮と宗義と相違せざる、彼の神主称歎の書札也、当寺の面目、一宗の素意これにしかず」と賀札を喜んでいる。
こうして法華経三十番神は名実ともに法華神道として、以前にも倍して諸門流に重視されるようになった。
また兼倶の子兼永は、平野神社預り兼緒の養子となり神祇大副に任じられていたが、天文法難のとき法華宗側に参加して戦死するなどして、神道長上の吉田家と結ばれた法華神道は確固たる神道上の地位を得たのである、これと共に神道の学上の裏付けが行われ、これが密伝・相承として珍重されるようになった。
円明院日澄(一五〇八-七九)の名で伝えている『法華神道秘決』四巻は、当家神道一大事の深秘口伝として著わされ、承慧日修(一五三〇-九四)は『鎮守勧請覚悟要』一巻、仏心日珖は『神道同一鹹味抄』六巻、『神道私抄』一巻を著わした。
なかでも日修は当諸達によってみても判る如く、吉田神道職と重緑を結び、日蓮宗独自の三十番神・法華神道を不動のものとしていったのである。
三十番神信仰法華宗の守護神信仰の有力な位置を占めるに至り、従来法華守護の神として尊崇されていた鬼子母神・十羅刹女と共に、我が国の守護神としてまた法華守護の神として尊信されたのである。
《『史大辞典』一二巻「法華神道」の項》

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