妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

関本龍門

せきもとりゅうもん #5117

関本龍門

せきもとりゅうもん

(一八六八ー一九四〇)
日潜・妙雲院と号す。
大正・昭和の宗門育者。清水龍山は法弟に当る。
明治元年一〇月、福井県武生市(現・越前市)に生れる。
幼名を五助といい、幼くして出家、福井大道妙泰寺出身の龍妙上木日令(一八三五ー九二)に師し、名を龍門と改め行学に励む。
日令は充洽園で近代日蓮宗教団の生みの親といわれる宗学者優陀那日輝に学び、新居日薩吉川日鑑らと共にその俊秀をうたわれ、当時和歌山感応寺の南紀学林学頭として門下育成に励んでいた。
龍門やその後に入ってきた龍山はここで日令から厳育され、優陀那宗学授された。
龍門もまた近代日蓮宗を形成した充洽園の流れを汲むものであった。
龍門は明治一七年教導試補に叙せられ、大阪の良政寺に請ぜられ、次に師跡の和歌山感応寺に転じて再建整備に尽力し、遂に本堂を復興した。
大正三年(一九一四)身延山の祖山学院教頭に招請され、就任。ここで祖山に集まる学徒を教導して育者としての名を高める。
大正七年、神奈川横須賀金谷山大明寺五九世として晋山。祖師堂、七面堂等を再建し、寺観を一新、中興の祖として仰がれている。
大正一〇年僧正に昇叙。次いで大本山本圀寺の官、寺債整に活躍して功をなす。
昭和七年(一九三二)九月、請われて立正大学学長に就任、宗門教育の最高責任者となる。大学では法弟清水龍山が優陀那宗学を鼓吹して論陣をはり宗学熱の高揚していた時であった。龍門は大学内の整備と学徒の勉学に心を砕き、昭和八年には立正大学創立三〇周年の祝典を挙行し、大学に風学寮を作った。
昭和一〇年学長を清水龍山に譲って辞任。
昭和一五年三月一四日七三歳をもって遷化した。
法臈六一歳。
権大僧正。
宗門育に従すること三〇余年、祖山学院・立正大学の長として激動期の宗門を担い指導した。
大明寺には法縁の救癩の父綱脇龍妙が入り、龍妙は龍門のために碑銘をしるし、その功を称えている。

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