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石橋湛山

いしばしたんざん #4250

石橋湛山

いしばしたんざん

(一八八四-一九七二)
明治一七年九月二五日、東京市麻布区芝二本榎(東京都港区高輪)に生まれる。
父杉田湛誓は、承寺境内の東京大院の助補で、のち身延山久遠寺第八一世の法主となる(杉田日布)。 母の石橋きんは同地の畳表請負をとする旧(承教寺檀)で、熱心な日蓮宗信者石橋藤左衛門の二女であった。 湛山は長男で、幼名を省三という。 情により母方の姓を継いだ。
明治一八年(一八八五)、父が山梨県昌福寺に晋み、湛山は母と共に甲府市に移り、父と別居した。
更に二七年九月、父が静岡県本覚寺に晋むのに際し、湛山は長遠寺の望月日謙に預けられた。
明治三六年、早稲田大学に入学、文学科(部)哲学科にて哲学を学び、更に宗教研究科に在学した。
後、明治四一年、東京毎日新聞社に入社するが翌年に退社し、麻布歩兵第三連隊に入営した。
明治四四年、東洋経済新報社に入社すると同社主幹・社長となり、自由主義・民主主義・平和主義者として評論活動を行った。
戦後第一次吉田内閣の大蔵相に入ったが、昭和二二年(一九四七)五月に公職追放された。
昭和二六年六月に解除され、その後鳩山内閣の通産相を経て、昭和三一年一二月自民党総裁となり、第五五代内閣総大臣に就任。
翌年二月、病気のため在職二ヵ月にして総大臣を辞任。
回復後の昭和三四年には訪中し、毛沢東と会談した。
昭和四七年、八九歳で死去。 法号は謙徳院殿慈光湛山日省大居士
この、昭和二七年一二月に第一六代立正大学長に就任し、併せて立正高等学校長・立正中学校長、翌年一〇月に立正大学振興会総裁等を歴任し、同三二年一月に日蓮宗権大僧正に叙せられた。
昭和四三年三月立正大学長・立正高等学校長・立正中学校長を辞任し、新たに立正大学名誉学長となるなど、幅広い活動をもって宗門に貢献すること多大であった。
没後の昭和四八年には石橋湛山記念財団が設立、平成二五年に石橋湛山研究学会が発足し、平成二九年には立正大学石橋湛山研究センターが設立されるなど、その後も湛山の顕彰・研究が進められている。
石橋湛山全集編纂委員会編『石橋湛山全集』一五巻、小野文珖『昭和法華人列伝』、増田弘『石橋湛山』(中公新書)、同『石橋湛山』(ミネルヴァ書房)、『国史大辞典』一巻「石橋湛山」の項

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