常陸の湯
常陸の湯
ひたちのゆ
茨城県水戸市にある加倉井(隠井)の湯のこと。
他にさばくの湯、下野の那須、塩原の湯等の諸説がある。
文永一一年(一二七四)五月一七日、身延へ入った日蓮聖人は、やがてここを安住の地と定め、いかなる主上・女院の御意たりともこの山を出ないという覚悟を門下に告げるに至った。
しかし生涯にわたる迫害・忍難の生活、そして人里離れた深山身延の厳しい自然環境は、除々に健康をむしばんで、聖人は重い下痢を病んだ。
人々は聖人の身を案じて湯治をすすめ、ついに弘安五年(一二八二)九月、聖人は入山以来九ヵ年間住み慣れた身延山を出て常陸の湯におもむき湯治することとなった。
しかし池上に到着した聖人は疲労甚だしく、病状は常陸の湯へ行くことを許さず、入滅の近いことを知った聖人はここを臨終の地と定め、ついに一〇月一三日、六一歳をもって入滅した。
聖人が常陸の湯へおもむかなかったことについては古来より別に問題にされることもなく、そのまま池上で静養したと理解してきたが、江戸時代に入ると、池上に着き二、三日休養して常陸の湯やその他の温泉に入湯したと記すものもでてくる。
これは恐らく寛永一四年(一六三七)刊、舜統院真迢『破邪顕正記』の、聖人は常陸の湯に湯治するつもりで身延を出たもののついにその地へ行けず池上で死んだが、これは自らの死期も知ることの出来ぬ凡僧たるの証である、との悪罵に対する弁明的な憶説であるといえよう。
ところで常陸の湯についてはその場所について前述のような種々の説がある。
しかし、さばくの湯は俗に磐城の湯とよばれ、常陸国に近いが奥州と常陸の国境の関を越えた奥州磐城郡の地にあって常陸の湯とは全く別箇のものであり、さらに常陸の湯を下野国の那須、塩原とすることも妥当でない。
常陸国には温泉は極めて少ない。
中世の温泉としては常陸太田市の西北にある袋田と那珂郡(水戸市)加久良井(隠井)が知られているが、両温泉共に加熱して用いる。
この両者のうち隠井の湯こそが聖人の目差した湯であろう。
常陸の隠井は南部実長の所領であり、後に実長の二男実氏がそこに赴き、母妙徳と共に住している。
その鉱泉の湯は胃腸病に特効があることは実長の知悉しているところであつたろうし、南部一族有縁の者がその地に住していたであろうことも当然推測し得ることである。
熱海・箱根の湯は聖人も諸人もよく知るところである。
しかもこれらを避けてわざわざ遠くて不便な常陸の湯を目ざしたのは、これらの地が北条一門の領有あるいはその近くに所在しているから、彼らを刺激したり、無用の摩擦を起すことをさけ、心身共にくつろいだ療養を望んだからであろう。
《宮崎英修「波木井殿御報「常陸の湯」について」『大崎学報』一二五・一二六合併号、『遺文辞典』歴史篇「ひたちのゆ」の項》