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南部氏

なんぶし #981

南部氏

なんぶし

日蓮聖人が身延へ入山された当時の領主である南部六郎実長を中心とする南部氏の一族のことである。
実長は波木井に居城を構えていたので、波木井公ともいわれている。
身延山史』によると、波木井実長の祖先は「人皇五十六代清和皇の王子一品式部卿貞純親王にして、六孫王経基より、多田満仲、河内守頼信、伊予守頼義等を経て新羅三郎義光に至る。光は八幡太郎義に従って陸奥に出征し、甲斐源氏を興せり。其子に武田冠者義清あり、其子に逸見冠者清光あり、清光に武田太郎駿河守信義・上総介光長、加賀美次郎信濃守遠光の三子あり」とあって、この遠光に四男があり、長男を秋山太郎光朝、次男を信濃守長清、三男を三郎光行、四男を四郎経光と称した。
三男の三郎光行については『波木井南部氏跡考』によると、新羅三郎義光の曽孫に当り、甲斐南部に生れ、南部を領としたので南部三郎と号したとしている。
父の遠光と共に源頼朝に仕え、奥州征伐に功を挙げたことから、九戸・閉井・津軽・鹿角・糟部の五郡を賜り、建久元年(一一九〇)一二月甲州(山梨県)を発って、糟部におもむいた。
この光行には数人の子があった。
身延における南部氏の中心人物たる実長は、その一子であり『南部文書』の「八戸系」によると、初めは彦三郎といったが世の人々は彦を略して三郎と呼んだ。このため父の三郎光行と区別するため、後に六郎と改めたことがわかる。光行の三男であるとされているが、二男・六男あるいは四男・五男等の諸説がある。
例えば『尊卑分脈』によると四人兄弟の四男で小四郎実長と称したとあり、『群書類従』の「秋山系図」によると、五人兄弟の四男で「南部羽切六郎日蓮上人弟子、日本法華宗之始、法名日円」とあり、『身延類聚』追加分の系図では、六人兄弟の六男であるとし、また『南部根元記』でも六人兄弟の六人目であるとしている。
しかし、『群書類従』の南部系図・清和源氏系図・『身延山御書類聚』坤巻、等にはいずれも三男とあり、日蓮聖人遺文にも「六郎三郎」とある点から、初めは三郎で後に六郎と改めたという説によって、三男であったとするのが妥当であろうとする。
なお文永六年(一二六九)九月に南部氏へ宛た『六郎恒長御消息』があるが、これは恐らく本満寺本の写本が実長を恒長と誤写したものと考えられる。
この実長は現在の身延町の隣に南部町があるが、その南部の近辺と波木井の郷ほか数ヵ所を領していたが、主に波木井に居住していたので波木井南部氏と称されるに至るが、実長をもって波木井南部の初とするのである。
『南部根元記』によれば、南部光行の一族として、長男は彦太郎行朝と称し、一戸の祖であり、二男は彦次郎実光で父光行の督を継ぎ、三男太郎三郎朝清は七戸の祖、四男弥四郎宗朝は四戸の祖、五男五郎行連は九戸の祖となり、六男波木井六郎実長は八戸の祖であるとする。
しかし『群書類従』の「南部系図」によると南部光行に五男があり、長男は実光彦次郎、二男行朝、三男実長三郎、四男宗朝四郎、五男行連五郎となっている。
更に『身延山御書類聚』坤巻によると、長男は行朝で「庶腹分地」と記されている。二男は実光であり、三男実長については「正腹、家督合掌、甲斐波木井城主、南部彦三郎後改六郎」となっている。更に四男宗朝、五男行連、六男朝清となっており、六人の男子があったことになる。
南部氏にはこのように五人ないし六人の男子があって、それぞれ一戸を始めとする奥州地方に所領があったことがわかる。
中でも三男実長については、八戸の祖とあるも専ら波木井に住した。
日蓮聖人の遺文によれば「身延の沢と申す處は甲斐の国の飯井野御牧三箇郷の内、波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候」(定一六五一頁)とある。
共に南部氏の領地であるが、飯井野は今の大野であり御牧は今の南部であるとするが、これにもまた異説があり、御牧は北巨摩方面ではないかとする説もある。いずれにしても、身延は波木井の郷の戌亥の方向に当っていたことがわかるが、南部実長は聖人をこの地に迎え、庵室を建立して外護に尽したのである。
本化別頭仏祖統紀』によると、正嘉年中に実長は鎌倉に在り、荏原義宗によって聖人に初めてまみえ、爾来門下となって篤信の徒となったことがわかる。
南部氏の宗旨についても元は念仏宗であったとする説と、禅宗説、真言宗説などがある。
聖人と同年で貞応元年(一二二二)の生れであり、身延山の開基檀越として重きをなしている。
実長は弘安四年(一二八一)に落髪し得度して聖人から日円の名を給わった。
聖人在山九年間よく外護して仕えたが、聖人は弘安五年入滅に先立って一書を送り、在山中の労を謝し、更に「いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(沢)にせさせ候べく候」(定一九二四頁)と遺言され、死後の事についても南部氏に依頼されているのである。
こうした点からみても、いかに聖人身延山を重要視し、また南部氏を頼りにしていたかが窺えるのである。
永仁五年(一二九七)九月二五日逝去。
実長のあとを継いだ子息についてみると、これもまた諸説あり一定しないが、秋山系図には実継と祐光の二子があり『八戸家伝記』には「実長嗣子彦次郎実継、二男弥三郎等」とある。
波木井南部氏事跡考』によると「日蓮宗々門史家の伝へる所では実長に三子あり、長を長義弥六郎と称し家をつぎ、次を実継八戸氏の祖、三男を弥三郎実氏と云ひ常陸加倉井に住すと云っている」とある。
更に身延山文書の波木井家系譜によると、南部氏には次のように四男二女があったことがわかる。
一は女子、二は実継(三郷領主・童名梅平丸、彦次郎)三は女子、四は祐光(孫三郎)、五は長義(弥六郎日教)、六は実氏(弥三郎加倉井妙徳寺開基)となっていて長男の実継が総領職をついだことになっている。
それ以来南部氏は代々勢力を盛んにして奥州・甲斐の両地方で栄え、身延山の猊座には南部氏の一族出身者からも着く者が出て、南部氏の氏寺と見なされる期もあった程である。
しかし、延元三年(一三三八)南部師行が討死してからは次第に勢力が衰え、八代の政光のに甲斐の本領をすて宗をたよって八戸に移った。
身延でも一族の出である日長・日院・日遠らを経て行氏の代には、すっかり衰退し、ついに戦代には武田信虎に攻められて帰農するに至っている。
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『波木井南部氏事蹟考』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、『南部氏文書』、『遺文辞典』歴史篇「南部六郎」の項、『日蓮辞典』「南部氏」の項、『昭和新修』別巻「南部六郎実長」の項、『日興門流上代事典』「南部弥三郎」「南部六郎三郎」「南部六郎次郎」「波木井実長(南部六郎入道・日円)」の項、『国史大辞典』一〇巻「南部氏」・一一巻「波木井実長」の項
(上田本昌)

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