身延中興三師
身延中興三師
みのぶちゅうこうさんし
文明七年(一四七五)頃身延十一世日朝(一四二二-一五〇〇)は西谷から現今の地に久遠寺の移転拡張事業を成しとげ、一二世日意、一三世日伝を経て諸堂を完備した。
近世初頭に起った受不受論争は二〇世日重・二一世日乾・二二世日遠の努力とも相まって身延を諸山・諸門流の盟主となし、その地位を確固ならしめた。
日重・日乾・日遠三師は特に「宗門中興の三師」といわれる。
以後は寺運大いに栄え、幾多の堂閣が整備され、三一世日脱・三二世日省・三三世旦亨の時代の正徳二年(一七一二)には支院数一三三坊の多さを数えるに至っている。
不幸にして、幕末より明治にかけて度重なる不慮の災禍に遭い、伽藍のほとんどと日蓮聖人自筆の諸書を失ったが、七三世日薩・七四世日鑑・七五世日修らはよく時代の転換に対応して今日の身延の基礎を築いた。
以上共に宗門の中興たると同時に、また身延中興の三師と称す。