受不受論
受不受論
じゅふじゅろん
不受不施義を立てるとき謗施を受けるや否やを論ずることである。
この場合、受・不受というのは不信・未信の王侯の施を受けるや否やということで、一般平人の謗施を問題にしたのではない。
文禄四年(一五九五)豊臣秀吉が大仏千僧供養会を催したとき、京都の日蓮教団はこの供養会に出仕して供養を受けるか、不出仕を主張するかの二者に分かれたが、大勢は出仕して供養を受けることに決した。
受者の主張は不信者秀吉の供施は謗法の供養であるが、当代の国主秀吉は特別の地位にある人であってその人の供養は謗施・信施にかかわらぬものである。
宗門にも古来より公家武家大官の供養は特例として受け来った「公武除外の不受不施制」がある。
よってこれは受けて差支えないとする。
一方不出仕を主張する不受方は不信・未信の謗法者は国主も平人も問うところでなく、仏教の中においては同等の存在であるから、いかに権勢をもつ国主であっても謗法の人の供養であるならば受くべきではない、仏法と世法を混用してはならぬ、と厳制した。
この時、受施を主張したのが本満寺日重、日乾、妙顕寺日紹ら京都日蓮宗の重鎮長老たち、不受を主張したのは少壮気鋭の妙覚寺日奥とその同志である。
これはのち三〇-四〇年たった寛永七年(一六三〇)二月身池対論の時も、身延側では受の対象はあくまでも国主、王侯においていたのであって、身延日暹が対論ののち門末に念告した回文に「我山の法理、国王の御供養に於いては常恒に之を受け候間異論に及ばす候、但し平人の施は中古において息世譏嫌となす、我等専ら今更これを改めず候、則ち両隠居と愚意と同心に候」と国王の施は旧規に従って受けるが、平人の謗施を受けぬことはこれまた中古以来謗施不受の旧規に従う。
この点は日乾・日遠の両隠居も自分と同意見であるといっている。
しかるに寛文五年六月(一六六六)の不受不施義禁圧のころになると、妙心日奠は財施はあたかも糧食兵粮、刀杖、武器弾薬のようなものである。
謗者の出す施は敵の武器、兵粮をとって相手の力を弱め、味方の利となるものであるから当然受くべきであり、謗法の僧に供養すれば相手の戦力をまし意気を盛んならしめるから断じて施してはならぬ、謗者の財施はあくまで受けよ、謗者には断じて施すな、と徹底した受不施義をたてた。
日奠の寂後、さすがにこの受不施義は反省されたようであるが、謗法者の施といえども布施をする時に帰敬の心は動くものであるとし、乃至微信、一分の信を認めることによって布施を受ける基礎としたようである。