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日奠(妙心院)

にちでん #2542

日奠(妙心院)

にちでん

(一六〇一-六七)
慶長六年、北陸加賀(石川県)の生まれで、母は蓮池院法安妙
前田利長(前田二代)・利常の生母壽福院華岳日栄の甥という。
あるいは加賀公の落胤で壽福院の猶子となったともいうが、いずれにせよ加賀前田深縁の人で身延山古老は加賀奠師と称している。
日奠ははじめ日伝、字は義道妙心院と号し、身延に入山するや先師宝聚院日伝(一三世)の名を憚かり日奠と改めた。
幼少より聰敏の誉れ高く、やや長じて心性院日遠の会下に入り、のち中正院日護の下に参じ、法弟隆源院日莚と共に日護門下の双璧となった。
寛永の初め二〇余歳のころ関東に下り中村檀林に学んで攻学研鑽、多くの俊英の中に嶄然頭角を顕わし、かくて日奠は時の能化通心院日境に推されて首座となり学徒を育成するに至った。
これよりさき宗門では受・不受の対立が激しくなり、寛永七年(一六三〇)二月、身池対論のすえ池上本門寺日樹ら六人の不受派の頭領は諸国に流罪されたが、幕府のこの処置は不受派の主張は先年権現様(家康)のお宰(さば)きに背く故をもって首長を断罪したと決判するに止まって一般不受法理にはふれることなく放置し、寛文元年(一六六一)にはかえって平賀本土寺・碑文谷法華寺・小湊誕生寺の本末が不受不施を守ることを公許したような情勢であったから、関東方面の不受派の勢力は不抜のものとなり、この情勢は宗内全般を覆うに至った。
中村檀林は不受派の頭領である遠寿院日充がいたが、身池対論の結果、日充は奥州岩城平に流され、ために学徒は四散し、檀林は衰微荒廃せんとした。
日奠は心性院日遠の流れをうけ、中正院日護の宗風をついでいるから、当然受不施をもって適時の制法を考え、不受の徒は時宜を知らず旧株を守るものとし、当時淊々たる不受派の勢力に対し断固として抗争し、日境をたすけて中村檀林をまもったのである。
慶安元年(一六四八)日境は身延に晋み、日奠は中村の化主となった。
に四八歳、程なく職を辞し能登滝谷妙成寺の請をうけてこれに赴き、化を加能越三州にしき、三宝寺・蓮華寺・常楽寺を加賀に、浄心寺を能登に、妙輪寺を越中に創し、妙成寺にあっては諸堂造営構築に美をつくし中興の祖と仰がれている。
しかるに万治二年(一六五九)一〇月通心院日境五八歳をもって化し、日奠請ぜられて翌年四月身延二八世を継承した。
に六〇歳。
受不受の対立は極めて熾烈で日境は江戸に常住し、池上本門寺僧那院日豊と共に繰り返し寺社奉行に不受不施義禁圧を訴え続けたが中途にして江戸に客死したのである。
日奠は日境の遺志をつぎ盛んな運動を展開したが遂に幕閣の首脳を動かし寛文五年六年にわたり、寺領供養義を決し、不受派主張の寺領は仁恩の施とする義を禁じ、ここに先年公許した本土寺・誕生寺・法華寺の不受不施義は自動的に禁止され、ために不受を奉じた僧侶は表面に受不施・禅宗・天台宗の名をかり内心に不受不施を奉じ地下にひそんで不受不施派を成立させるのである。
元来受不施義は身延の日暹・日乾・日遠らが確認しているように、王侯等の布施は特例として受けるが一般庶民の謗施はあくまで受けぬという王侯除外の不受不施であったが、日奠はこれを更に飛躍させ謗施たりともこれを受けてよいが他宗謗者には布施すべからずという徹底した受不施義を成立させた。
日奠の『受不受法』は『受不受法抄』ともいい、六〇ヵ条よりなるが、その遮難は一六科に分かれているので世人はこれを「宜道の一六箇条」と称した。
日奠は謗法者に施さぬことは経論釈、聖人の筆跡明白にして自他異論はない。
今の論は他宗よりの施物を受けるか受けぬかの論であるとして王侯の施という特例を問題からはずして一般施の中に入れた。
而して惣じて布施とは帰敬の心をもって菩提に資し、修行者を助力するにある。
謗者に一分の帰敬する心あればどうしてこれを押さえることができよう。
しかもこれによって正法の行者を助成するならばどうして受けずにおられよう、といい謗者の財施と、法施の教法の関係は喩えば謗者の財施は敵の財宝、権は敵の刀杖・矢・鉄砲の如きで、敵の財宝は取るべく、我身を傷つく敵の刀弓砲は受くべきでない、味方の財を与えば敵に力を与え、味方の力を失うから禁ずることは当然である。
謗者の財施は受くべく、謗者への財施は禁ずべしという徹底した受不施義を結成したのである。
日奠にはこの外に『西谷名目解』五巻、『破奥記』『難条目返答』『身延山久遠寺蓮祖御真翰入函之次第』等があり、身延山諸堂、五重宝塔、御真骨堂、刹女堂、丈六堂、三光堂、一切経蔵其他多くの諸堂を整備・建立している。
寛文七年一〇月微恙を感じ同月二三日入寂、世寿六七歳。
日奠の法脉を奠師法類という。
《『本化別頭仏祖統紀』、『身延山史』、『妙成寺史』、宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『不受不施派の源流と展開』、同『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「日奠」の項

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