南谷檀林
南谷檀林
なんごくだんりん
なんこくとも。
朗慶山立善講寺という。
池上本門寺二二世妙悟院日玄(一六三四-一七〇四)が、池上南谷の地にある日朗隠棲の旧跡照栄院に開創した学室。
日蓮宗関東八檀林の一。
開創年代は従来元禄二年(一六八九)四月と伝えられてきたが、照栄院に伝存する講堂建立時の日玄自筆の棟札に「武州荏原郡池上本門寺中南谷檀林之棟札 開基日玄認之 授与之二祖日貞聖人 所悕学業繁栄法灯相続也 元禄元戊辰年仲冬大吉日」とあるから、この説は否定されよう。つまり元禄元年(一六八八)には南谷檀林の名称も用いられており、既に二祖日貞の名もみえるから、これ以前創建されていたことは間違いない。
日玄は飯高檀林で三〇年間学業に励み、一七世の化主となり、ついで真間弘法寺に晋董、延宝元年(一六七三)に両山(池上・比企谷)に転晋した。従って当檀林は飯高直系の檀林ということができよう。
檀林開設に当って、日玄は両山一四世日詔が鎌倉比企谷の常栄寺に、慶長一一年(一六〇六)に開き、日遠、日通などの学匠も講説に加わったと伝えられる宝篋堂檀林(鎌倉檀林、常栄寺檀林ともいう)の古格を移したという。これは形式的なもので、あとからできた当檀林の格式を高めるためにとられた手段と思われる。
当所に檀林が開設される理由を、照栄院が池上本門寺の院家職という高い寺格の子院でありながら、実情はまったく貧寺であったため、その興隆策のためと寛政期に当檀五五世化主となった日遍は記している(『法養寺文書』)。
しかしそればかりではない。
両山は中世には鎌倉にある関係で比企谷妙本寺に貫首が常住していたが、江戸開府以後は池上本門寺が江戸に近い関係から貫首も常住するようになり、次第に大本山化の傾向を示した。
そこで当然付属教育施設の必要が生じたのであろう。
日玄は開設当初自ら、玄・文両部の講主として直接学侶の教育に当った。
弟子慈雲院日潤(本門寺二三世)がこれを助け、飯高の学匠として名高い善恵院日貞、常住院日宣、妙性院日莚、勧持院日典などが化主として来講し充実度を加えていった。
享保元年(一七一六)に妙玄院日等が両山(二四世)に入山すると、これまで当檀林の文句部の講義は貫首が直講することになっていたのを改め、代講の制を設け、照栄院の当住がこれに当ることに定めた。
貫首直講という変則的教授システムがとられた理由は、本門寺という巨刹直属の教育機関であったこと、開祖日玄を始め、歴代の貫首が飯高の化主から両山に昇進、しかも当代日蓮宗の代表的学匠であったこと、開創間もない時代で、まだ自檀出身の玄・文両講主となる能化が育っていなかったことなどが考えられる。
享保三年には、玄能が専住する妙解院(玄能寮)が、飯高の教蔵院を模して設置された。
同年に守玄院日顗(両山二五世)が当檀一二世の化主になると、彼が当檀出身の関係からか、池上門流寺院の子弟は、すべて当檀で学ばせることを強く要求した。
また元文元年(一七三六)に両山に晋董すると、旧宝篋堂檀林の格式をもって、宗門最大の飯高と、小檀といわれた当檀の檀林位階上の差違を縮めることに尽力し、学侶に自信をもたせると共に檀林の発展向上に努力している。
檀林の設備は講堂、方丈、玄能寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、惣門、檀林守護の妙見堂などがあり、所化寮には正善庵、東林庵、白寮、中頭寮、松樹軒、長寿庵、薗林閣、幽微亭、養老庵、雲龍窟、林老庵、梅林庵などの雅名がつけられていた。
嘉永三年(一八五〇)には当時宗門を代表する碩学、優陀那院日輝が九二世の化主に請待されるなど発展を示し、幾多の名僧を世に送りだしたが、明治六年(一八七三)に新教育制度の実施で廃檀となった。
《新倉善之「池上南谷檀林考」『史誌』一、執行海秀『日蓮宗教学史』、影山堯雄『日蓮教団史概説』、『新編武蔵風土記稿』》