妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

身延流

みのぶりゅう #4891

身延流

みのぶりゅう

または身延山流ともいう。
本宗祈祷修法の源流で、下総中山法華経寺に伝わる正中山流即ち中山流に対する呼称でもある。
身延山に秘蔵されている現存の祈祷関係者は、身延山第一一世日朝時代の前後より保存され、その古伝書に「身延流」と記入されていることが流名の出た最初であろう。
これらの祈祷書は主に日朝、日意、日伝の法主によって解説され、身延流ばかりでなく、当時の修法界を指導する役割を果している。
その後七面山信仰の隆盛は、身延流に即ち身延山で修行するものに活気を与えた。
身延山荒行の祖仙応坊日慧が出て、七面山に三千日の荒行を成満し、理論的な身延流に実践面を加え、弟子仙寿院日閑は御苻書『身延山東谷積坊日閑直伝』を著して積一〇世中興といわれた。
承応二年(一六五三)養珠院お万の方の願いにより、身延山第二六世智見院日暹は、多くの相伝書を身延山内伝師の東光院日春に命じて大阪高槻市梶原一乗寺第六世普明院日栄に伝授し、普明院流が生れた。
静岡県富士郡(現・富士宮市大鹿窪)三澤寺一〇世勧持院日相は、承応三年仙寿院日閑より直授を受け、二八箇条の切紙を感得し、目録を制定して三澤流を創唱した。
前述の身延二六世日暹の資の三重県桑名、円妙寺祖通妙院日隆は、感得せる弾指加持をもって藩主松平定重の難病を治し、桑名流の名を挙げ、身延山第三一世一円院日脱の弟子で山梨県青柳町昌福寺の一道院日法は、京都本蔵寺に拠って、鴨川に一千日の荒行を満じ、霊元上皇を祈って効あり、大験者上人の尊称を受け、堂上よりの知遇も厚く一道院流と称せられた。
また江戸山谷正法寺歴代、唯観院日勇は、延宝三年(一六七五)七面山一百日の加行により『摩訶止観』の「病患業相魔事境」の一章を体解して、観念、観法に住しての修法をもって唯観流を、身延、中山流と肩を並べる程に流行させたのである。
この様に身延流を元として修法の各流派を生じているが、江戸中期以降積善坊流の盛大化によって、身延流は即積善坊流となったのである。

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