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積善坊流

しゃくぜんぼうりゅう #4359

積善坊流

しゃくぜんぼうりゅう

わが宗門の祈祷諸流の中の一流派で、身延山流の一派である。
身延積善房流祈祷血脈相承』によると、身延山第一三世宝聚院日伝を積善坊開基とし、身延山第二二世心性院日遠を二代とし、乃至一〇代日閑、積善坊中興、仙寿院と号すとあるが、六牙日潮の『別頭統紀』巻之一四、身延山歴代列伝の第一三世宝聚院日伝の項には、積善坊開基のことなく、また第二二世心性院日遠伝の項にも積のことは一言も觸れてない。 ただ巻之二一、諸山総列伝の中の「甲州身延積善坊第十代日閑法師伝附日伝」の項に(取意)「往古孤貧の僧あって臨終正念を期し、七面山に一七日間祈祷経を誦して参籠中深夜、七面女より七合ばかり入る鐺(なべ=つるのある鍋)を授けられた。 この鐺は水を煮れば甘く、粥を炊いて多くの人々に施しても尽きなかったという。 またこの僧は神の如き修験の術も七面明神から授けられたため、人々は日伝大徳と称して敬仰した。 日伝は初め西之に仮寓していたが、後に東谷に草庵を結び積房と呼ばれた。 日伝寂後は日遠という弟子がいて立派にその後を継いだという」とあり、一〇代目の仙寿院日閑は、「荒行の祖」と称せられる師の仙応日慧について七面山にて苦行中、師と同様に七面女より小木の枝を一本賜わった。 この神枝(揚枝と称せられる)をもって修法すると、祈祷叶わざることなしという。 享保一七年(一七三二)上梓の『修験故事便覧』に、「而して後、祈祷加持するに必ず揚枝を以てす。 病として治せざることなく、鬼として去ざることなし。 因て積揚枝加持と称す。 自他の験者木剣を用ゆること彼の揚枝に擬す」とあり。 また「師は平生、麻衣木錦服、粗荼、淡飯。 子に臥し、寅に起き、日課之外転経一部、唱題一万遍、祈祷経七返」修験の利益による改宗者数万人ありという。 つねに日閑は「修法する者は平等の慈悲を第一とし、一念も名利の心が有れば必ず現ありとして後来を誡しめた」という。 このことなど考え合せても積坊の実上の開基は、身延山歴代の宝聚院日伝ではなく、この中興といわれる仙寿院日閑ではなかろうか。
爾来その行功を慕って積坊に修行する者多く、次第に積坊の名が身延山流の中の一派の呼称となり、江戸中期以降はますます盛大となって来、またこれに対する流派もなく、延山流積善坊流と称されるようになったのである。
この積善坊流の祈祷法は、七面山に参篭しての荒行で修錬体得の流派であったため、積善坊独自の切紙相承は少なく、承応二年(一六五三)に大阪府高槻市の梶原一乗寺六世普明院日栄に授けた『身延山東谷積日閑直伝』という口伝書は三二ヵ条の切紙から成り立ち、静岡県三沢寺一〇世勧持院日相(三沢流の修法の第二祖)に授けた日閑の切紙は二八通である(玉沢妙法華寺蔵)。 なお、これらの切紙はいずれも仙寿日閑の生存中の授与である。 日閑寂後四年目延宝三年(一六七五)、身延山七面山で加行した唯観流の祖唯観日勇の相伝も三二条であって、「行」を主としたこの流の特色を知ることができる。
雲切木剣で有名な満行院日順は、積坊一四代で矢張り中興と称せられ、正中山の遠寿院日久が元禄六年(一六九三)より同八年まで七回登詣した間、身延山七面山で加行の指導をし修行成就せしめたのであるが、日久の修法伝法の師である中山浄光院一六代法性院日諦も日順の指南を受けており、日順が修法偉の人であったことが解る。
坊二二代の普門院日憲は、「滝に千日、川に千日、井戸に千日の計三千日の苦行を成満し修験の威功神の如し」といわれ、種々の霊験利生を現した人であり、また能筆家で、積善坊伝承の口伝書、切紙等を整束し、伝法の秩序を糺し積善坊流祈祷法を興隆した人でもある。 また文政二年(一八一九)に積坊を東谷より蓮華谷に移し諸堂を増設荘厳し、中興と称せられ、同坊加行堂に修行するものも多く殷賑を極めたという。
これより先、積坊において、同流の秘伝書を火災等より護るため本山の宝蔵預けとして、相伝の都度借用書を本山に提出して行堂を開設したのであるが、文政二年八月一三日付けの日憲の差出した伝書借用書の目録を見ると、二〇種類以上の書名が載せられてあり、その中には正中山流の伝書名も見られる。 このことから、文化・文政期には、積善坊流の修行が、七面山での修行から積善坊境内での加行となって来ていることが知られるのである。
さすがに、幕末の世情混乱の期には加行するものも少なく、明治維新を迎えたが、明治八年(一八七五)身延全山烏有の大火は蓮華谷の積にまで及び、行堂焼失し、自然休堂の止むなきに至った。 幸い秘伝書収蔵の宝蔵は焼け残って、同二六代日等、二七代目誠と受け継いで今日に到っている。

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