俊範
俊範
しゅんぱん
仮名は弁公、房号は無動寺南勝房、大和荘法印、坂本法印とも称する。
日本天台宗僧侶。
寿永元年(一一八二)に生れ、弘長二年(一二六二)に入寂との説がある。
椙生の嫡弟大納言法印範源の弟子で、椙生流の「三代の明師」「五人の学匠」と称されるなかの第一人者。
南都に遊学し法相等の六宗を学び、椙生嫡流の付法を受け、更に範源より慧心椙生流の秘法を相伝された。
山門探題となり(「探題次第」)、大和荘に晋んだ(「無動寺記録」)。
大和荘は近江国東坂本にあるところから、大和荘法印、または坂本法印と称された。
後嵯峨帝に「天台七箇法要」を相承し、正元元年(一二五九)、勅を奉じて山門において三十講を行った。
日蓮聖人の叡山における師とする説がある(山川智応『日蓮聖人研究』・浅井要麟『日蓮聖人教学の研究』)。
これは『日大直兼問答記』の「大聖人、俊範より天台の法門は御相伝也」の文によるが、近年の研究では俊範の講義の一聴講者であったろうと推測されている。(高木豊『日蓮―その行動と思想―』)
日蓮聖人の遺文中には『念仏者追放宣状』と『浄土九品之事』(「俊鑁法印」と記されている)にその名が見られる。
前書には「大和の荘の法印俊範・宝地房の法印宗源・同坊の永尊竪者(後に僧者という、並に題者)等源空門徒を対治せんが為に各各其文広本に在り。
又諸宗明徳の面面書を作りて選択集を破し専修を対治す。
書籍世に伝ふ」とある。
嘉禄年間(一二二五-二七)に、俊範が法然門徒を破したとする所伝は他に見られないようである。
『浄土九品之事』には證義者の項に「俊鑁法印」の名がみられ、「大和の荘」「三塔の総学頭」「椙生」の注が付されている。
三塔の総学頭は叡山の要職であり、俊範が山門第一の碩学の位置を占めていたことが推測され、日蓮聖人が叡山へ遊学されたと伝える仁治年間(一二四〇-四三)には、三塔総学頭の地位にあり、修学の人々に慧心流の法義を講じていたものと思われる。
《山川智応『日蓮聖人研究』、『遺文辞典』歴史篇「俊範・俊鑁」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「俊範」の項》