決膜明眼論
決膜明眼論
けつまくみょうげんろん
四巻。
了義日達(一六七四-一七四七)著、享保二一年(一七三六)刊。
享保一五年刊行された性均著『台浄念仏復宗決』一巻に対し、日達が享保一八年刊行『顕揚正理論』二巻にて破し、これに対し、享保一九年刊『金剛槌論』一巻を鳳潭(一六五四-一七三八)が著し反論、これをさらに日達が破するために著作したのが、本書『決膜明眼論』四巻である。
本書は、まず題についての破斥を記すに始まる。
即ち「鳳潭頑嚚にして己れが愚を顧りみず濫りに醜言を吐て先聖を罵詈し樸鈍なること椎の如し故に椎論と題すること良に的当せり」とに見られる如く『金剛槌論』の題を破し、次に『金剛槌論』で破された自著『顕揚正理論』の題を弁じ、次に『金剛槌論』の序文を引き、それを破している。
本文は金剛槌論の文章を十五ヵ所引き、その文章を細文し、破斥を加えている。
(1)「鳳潭が涕唾を嚼とは、殊に碩笑すべし、嚼は説文に噬なりと」鳳潭の文に対して、嚼の字の解釈論を字林・後漢書等にて駁し、また探玄弘目の法華華厳同一円教とする文を引き、法華華厳同一とするに対し論斥し、法華華厳優劣を論ずることなかれとの『法華玄義』の文を引き難ずるに、これ真迢の詰問のまねであるとし、委しく論斥におよんでいる。
また無量義経の一道清浄の文の有無に対する返答。
(2)「代謝不住念念生滅・伝教註釈の随縁真如四相遷変は全く是れ起信の終教の談」、「三論の印師空経を見ると雖も、肯て万善成仏を明すとなさず、還て空を明すを以て無量義となす偽経となすと」、「天台既に経来るを以て証となれども、諸の偽経既に来ると雖も必ずしも証となせず」等の文を論釈し(以上一巻)。
(3)「歴劫修行は唯無量義の虚説なるのみ」、「華厳既に説く学地に住せず等正覚に成ず、奇なる一切衆本来成仏已竟」の文についての反論。
(4)無量義の訳者についての論斥。
(5)天台の文「初阿を円の初住と為し、後の荼字を以て、妙覚位と為す」を妄説とするに、その反論。
(6)止観の文より、天台は真言を伝えずとの難に、鳳潭が空海の謬解を見て天台顕秘の二判を知らないとしたのだと反論するに、これに対し諸経・論・釈をあげ破している(以上二巻)。
(7)伝教慈覚智証等灌頂位を業ずるに秘を伝えないとの難に対し、伝教等は「唐に在て真言禅を伝ることは則ち広く諸宗を学び吾天台を顕揚せんが為なり」と反じ、「理は同じく事は彼れ全く勝る、或は法華尚を及ばず」の文に対して「伝教入唐して天台の密禅の三宗を伝うと雖も帰朝の後に法華を以て則ち宗極となす、天台所釈の法華宗は釈迦世尊所立之宗なりと言へり」等にて論斥し、(8)一切衆生本心発菩提心を天台は知らず等の非難に対しての反論(以上三巻)。
(9)天台の文「法身は毘盧遮那此には一切處と翻す」の出典等に対する難の反論。
(10)「華厳に二失有りとは荊渓の私判なり、天台既に優劣有こと無しと定む、華厳の昭かに十身毘盧遮那と説く、声聞縁覚皆遮那仏あに開権これにこえたるなる可けんや」の文を破斥し、
(11)「汝が謂う所の如く鑰に既に関鑰及び鑰匙と二義有り、則ち是れ通漫なるが故に題名正からざること弁を待たず也」と題号について論ずるにこれ空海が倭訓を用いて誤ったのであり、これ正理論を持って初めて知るとはと、反論し、
(12)四十余年未顕真実の文、深密唯識の実義に反くと難ずるに駁論。
(13)待絶二妙について今昔の異を説いて、是の今昔の故に他宗無得道と説くが、法華経が初めて我身を見、我所説を聞く者、皆信受すれば如来の智慧に入るとの経文があるに、無得道とは何故との難に、無量義経の世尊の実説に依る所等と論じ、
(14)「若し終教に約せば六根聚経の如き有情数に在ては名て仏性となし非情数の中には名て法性となす」等の文を論難し、
(15)四明所立の品理随縁の成立の可否について、華厳十身毘盧遮那について等の論斥、以上各文を論斥、解釈して難語に対している。
これ法華経・華厳経・大日経等種々の経典、釈籤・玄義・法華疏・止観輔行等種々の論釈、史記・天台山志・大明一統志・東鑑等の史書を援引して破斥している。