申状
申状
もうしじょう
個人が公に差し出す上申書。
申文ともいう。
または日本中世における訴訟状。
本解状・目安。
所領等の争いにおいて安堵を要請する原告者の訴状。
日蓮聖人には『瀧泉寺申状』がある。
本状は弘安二年(一二七九)一〇月、瀧泉寺院主代行智が住僧の日秀・日弁を追放する訴状を幕府に提出した報を受けて、日興らの反訴状を聖人が校閲加筆されたものである。
瀧泉寺は天台宗寺院であったが日秀・日弁・日禅らは日興の教化を受けて法華経に帰依した。
行智はこれに圧力を加えたが、日秀・日弁は信仰をひるがえさず更に神四郎・弥五郎らの信仰者が増えていった。
弘安二年九月、神四郎ら二〇名の信仰者が捕えられて鎌倉へ送られた。
瀧泉寺側は日秀・日弁らを訴えたため、日興は反訴状を草して聖人の意見を求めたのである。
日蓮聖人滅後、日蓮教団においては六老僧を始めとする多くの諸先師が申状を呈して為政者を諫暁した。
その主なものを挙げると弘安八年(一二八五)日昭・日朗、正応二年(一二八九)日興、同四年日頂、永仁元年(一二九三)日弁、正安四年(一三〇二)日高、延慶三年(一三一〇)日像、嘉暦二年(一三二七)日興、同四年日向、元徳二年(一三三〇)日興、元弘三年(一三三三)日目、建武元年(一三三四)日祐・日目・日樹、延元元年(一三三六)日道、暦応元年(一三三八)日尊、同二年日妙、同三年日代、康永四年(一三四五)日郷、永徳元年(一三八一)日什、同二年日什、元中八年(一三九一・一、三月)日什、応永五年(一三九八)日仁・日実、同六-八年日実ら、同一〇年日道・日仁・日実、同一五年日仁・日運、永享四年(一四三二)日有・日伝、同一二年日親、年不詳日延・日聡、文安元年(一四四四)日住、享徳二年(一四五三)日院、長禄三年(一四五九)日延、寛正元年(一四六〇)日意(平賀)、同六年日住、文禄四年(一五九五)日奥、同五年日奥らがある。
これらは日蓮聖人の行実にならい、聖人の意志を実現せんとするものであった。
従ってその多くは『立正安国論』を副えて上呈されている。
皆帰妙法が末法における法華経のあり方であれば申状の上呈は、聖人以来、日蓮教団における法華経修行の一形態であったといえる。
法華経修行は正法興隆邪法滅尽に身命を挺する法華経の信心を本質とするゆえに、申状の上呈(国家諫暁)は法華経の行者としての自覚と一体の行為(修行)であった。
副進の『立正安国論』は聖人の意志を継承し実現せんとする門下の信心の証であり、ある時はそれが「先師申状」や自作の『妙法治世集』(日住)、『末法相応本化所立之法華宗法門之条々』(日奥)等にかわることもあった。
これらの諫暁活動をみると、たとえば久遠成院日親(一四〇七-八八)は、永享十一年(一四三九)の庭中に続き、翌年足利義満の三十三回忌に際し『立正治国論』一巻を上呈し、仏性院日奥(一五六五-一六三〇)は文禄四年(一五九五)から五年にかけて『法華宗諫状』『法華宗奏状』等の奏上を繰返している。
日親・日奥はこれによって肉体的責苦を受けたり寺院を追われるなど言語に絶する迫害を受けたのである。
《渡辺宝陽『日蓮宗信行論の研究』、『遺文辞典』歴史篇「申状」の項》