妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日秀(下野房・下野公)

にっしゅう #2876

日秀(下野房・下野公)

にっしゅう

(-一三二九)
下野房・下野公と呼ばれる。
「日興第一の弟子也」(「本尊分与帳」『宗全』二巻)と賞讃され日興門下中、いわゆる本六人の一人である。
日秀は天台宗の駿河熱原滝泉寺の学徒で日興を介して日蓮聖人の教化に浴し、聖人に給仕もしたが、滝泉寺住僧の身分のまま、帰属教団の内部で聖人説を弘めて行った。
のちに熱原法難において、同じく滝泉寺の越後房日弁(一二三九-一三一一)と共にクローズアップされる。
さて佐渡流罪中、日蓮聖人に随従給仕していた日興は佐渡から帰って、南条氏との結びつき及び日興自身の血縁関係をルートとして甲斐・駿河を経廻して聖人の教説を弘め、特に駿河富士郡(現・富士宮市)の御家人層を檀越として獲得して行った。
また日興自身は幼少のから天台宗蒲原四十九院に居住し、その供僧である立場を横に展開して同院及び実相寺、滝泉寺等の天台僧侶に聖人の教義を弘めて、日秀らのように弟子とし、その彼らがまた新しく下方の弟子檀越(主に農民層)を作っていった。
本尊分与帳』には、富士下方熱原六郎吉守、熱原新福地神主、三郎太郎の名が下野房弟子として記されている。
さて建治年(一二七五-七七)より、滝泉寺院主代で浄土教者の平左近入道行智は、住僧日弁・日秀らに法華信仰を停止して念仏信仰を強要し、寺外では日秀らの教導した百姓に対し在地有力者として得宗権力を背景に非法を行っていた。
遂に弘安二年(一二七九)九月、行智は苅田狼藉を契機に同地の百姓で日弁・日秀の弟子の神四郎等二〇名を捕えて鎌倉に送った。
この聖人は『滝泉寺申状』(定一六七七頁)をもって日秀らに代って陳弁している。
この熱原法難は神四郎ら三名の斬首、他の禁獄、日秀・日弁は滝泉寺を追われ、日頂に随伴して下総富木氏のもとへの亡命(定一七一〇頁)をもって終る。
のち日秀は聖人御葬送には御棺・御輿の先陣の左側の一人を務め、御遺物配分では銭一貫文を頂いた。
輪番月次は六月を勤めたが、身延離山後の日興に随従し、日興示寂に先立って嘉暦四年に寂した。
《『遺文辞典』歴史篇「日秀」の項、『昭和新修』別巻「下野房日秀」の項、『日興門流上代典』「日秀(下野房・理境)」の項》

← 事典トップ