妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

瀧泉寺(感応寺・静岡県静岡市)

りゅうせんじ #4015

瀧泉寺(感応寺・静岡県静岡市)

りゅうせんじ

現在の常住山感応寺で静岡市葵区に所在。
日蓮聖人身延入山後の建治(一二七五-七七)の初め頃、白蓮日興(一二四六-一三三三)による駿河富士郡(静岡県富士宮市)方面の活発な弘通により、同地の実相寺、四十九院、瀧泉寺等の住僧は次々と日興の弟子となっていった。
実相寺では住僧の肥後公・筑前房・豊前房・日仲が、四十九院では同院の供僧日持・賢秀・承賢が、瀧泉寺では日秀・日弁・日禅が日興の弟子となり、かかる天台宗寺院内部に日蓮聖人義を中核とする集団が形成された。
さらに彼等は在地の百姓農民に聖人の教説を弘めて檀越を獲得していった。
しかし、駿河の門弟が形成されるとともに、実相寺、四十九院ではこれ等の日興の弟子と寺院上層部との対立抗争が生じた。
一方、瀧泉寺でも浄土教者である同寺院主代平左近入道行智が住僧日弁・日秀等に法華信仰を停止して念仏信仰を強要し、また寺外にあっては日弁・日秀等の教導した百姓農民に対し在地有力者として非法を行なうなど、建治年間からくりかえしてきた小競合が、ここに院主代・在地有力者と、日弁・日秀を代弁者とする熱原の門弟との対立として拡大激化した。
そしてついに弘安二年(一二七九)九月、行智は苅田狼籍を契機に同地の百姓神四郎等二〇名を捕えて鎌倉に送った。
日弁・日秀は申状を送ってその不当を訴え、鎌倉在住の信徒も所縁の有力者を頼って幕府に運動した。
しかし、頼綱は神四郎等三人を拷問迫害し、子息飯沼判官資宗をして蟇目の矢で散々射苦しめ、のち斬首したが、周囲の情勢から他に及ぼすことができず、ついにのこり一七人を釈放した。
これを熱原法難というが、この地域における弾圧は弘安四年のころまで続いた。
この瀧泉寺はその後衰退し廃寺となったが、明応年中(一五〇〇前後)、岩越刑部少輔が身延の行学院日朝(一四二二-一五〇〇)に帰依して旧地にこれを再興した。
この、父の法号である感応院をとって感応寺といい、山号を常住山と号した。
正年中(一五七三-九二)、康の命により駿府に移した。
現在の感応寺。
《『日興門流上代典』「滝泉寺(駿河)」の項》

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