日弁(越後阿闍梨)
日弁(越後阿闍梨)
にちべん
(一二三九-一三一一)
越後阿闍梨日弁と称した。
中老僧で聖人の直弟に連なる人である。
日弁は熱原甚四郎の長男で延応元年駿河(静岡県)富士郡(現・富士宮市)楠山村に生まれる。
建長二年(一二五〇)出家得度して富士下方の天台宗滝泉寺に入り宥弁と名乗るが、日興を介して日蓮聖人の門下に連なり日弁と名を賜い、爾来、聖人の近くにあって研鑽を重ねた。
そして、建治年間の果断な活躍はついに弘安二年九月の熱原法難となり、日秀とともに直接の当事者として鎌倉における国権との裁判闘争に従事した。
日弁は弘安二年四月に聖人により曼荼羅一幅と自画御影及び三大秘法の一紙を授与されて、常奥羽三国弘通を命ぜられたといい、早くも同年、上総鷲巣の地に小早川内記を教化して鷲山寺を創建した。
弘安六年(一二八三)六月には下野公日秀と祖廟輪番を務めた。
正応二年(一二八九)には執権長時の孫、北条久時を折伏教化して松ノ郷久我台(千葉県東金市)に上行寺を創立して、ここに七年住した。
その時に一二の支院も開院し、正安元年(一二九九)には大石寺塔頭乗観坊を開したと伝えている。
乾元元年(一三〇二)常奥羽三国弘通の機は熟し、法鼓を打って常陸国(茨城県)に進出し、本行寺を始め妙蓮寺・常唱寺・願成就寺・妙法寺・法華題目堂・善識庵(後成顕寺)等を創立するなど、正に法軍破竹の観がある。
更に嘉元二年(一三〇四)には千葉峰妙興寺・上総妙宣寺を創立している。
延慶年中(一三〇八―一〇)には奥州遊化の旅につき安立寺・本行寺・慧日寺・久成寺・正覚寺等を帰伏改宗して、法線を拡張した。
しかし法論折伏された寺衆の中には怨嫉の者も少なくはなく、かくて日弁が応長元年(一三一一)六月二六日、急務のため房州へ帰る途中、奥州伊具郡甚次郎村でこれらの暴徒に急撃され、ついに七三歳をもって最期を遂げたのである。
日弁の布教は法華持経者の精神である死身弘法、折伏逆化の如説の実践者であり、また幕府に諫言や申状など行い、獅子王の如き伝道の一生であった。
《『遺文辞典』歴史篇「日弁」の項、『昭和新修』別巻「越後房日弁」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の門弟」の項、『日本仏教人名辞典』「日弁」の項、『日興門流上代事典』「日弁(越後房)」の項、『国史大辞典』一一巻「日弁」の項》