日興賜書
日興賜書
にっこうししょ
定本遺文番号三四二伯耆殿御書・三四四伯耆殿御返事・三四六変毒為薬御書・四二八伯耆公御房御消息・四二九法華證明鈔・続四九日蓮一期弘法の六書が白蓮阿闍梨日興(一二四六-一三三三)への賜書である。
〔日興伝〕日蓮聖人の上足弟子六人の第三位、日蓮正宗第二祖、富士大石寺開山。
姓は橘氏、母は由比氏、甲州鰍沢(かじかざわ)の生れ。
幼にして父を失い、母も再嫁したため、祖父由比氏に養育さる。
岩本の天台宗寺院の実相寺に入り、厳誉の許で仏法を学んでいたが、正嘉二年(一二五八)に日蓮聖人がこの寺に来り一切教を閲覧された時、一三歳で聖人の弟子となり、伯耆房と命名さる。
以後常随給仕して親しく教えを受け『立正安国論』の書写(玉沢妙法華寺蔵)なども務めた。
聖人身延入山の後は富士方面の縁故(南条・松野・由比・高橋氏など)を通じて教線を敷き、熱原瀧泉寺の日秀・日弁・日禅・甲斐の日華・日仙・日妙らを始め多くの農民を化導した。
付近の寺院では僧や信徒が次々と改宗していくので、日蓮信徒に対する迫害は次第に激しくなり、実相寺では日興・日持・日源・日位らが院主厳誉に追放され、瀧泉寺では院主代行智の一派が熱原地区の農民を捕えて鎌倉幕府に訴え、神四郎・弥五郎・弥六郎を斬罪にするという事件がおきた(熱原法難)。
日蓮聖人滅後は身延山に守塔輪番制が定められたが、弘安七年(一二八四)頃には六老僧らの主な弟子達は各地に散在して、幕府の圧力と闘いながら布教に熱中していたため、思うように登山できなくなっていた。
このとき日興は駿河方面の教化を一旦弟子にゆだね、地頭の南部実長とも相談して、自身が身延に常住して守塔の任に当った。
間もなく佐渡阿闍梨日向が登山して学頭職についた。
日興は妥協のない剛直の人、日向は温和で寛容な人柄であるため、地頭の実長は日向に接し、遂に日興は正応元年(一二八八)身延を離山し、富士の大石ヶ原に一寺を創して大石寺と称した。
のち南条時光らの外護により、永仁六年(一二九八)近くの重須に移り、本門寺を開いて弟子の教育に務めた。
これを重須談所という。
多くの人材を輩出したが、本六人(日華・日目・日秀・日禅・日仙・日乗)は長老として活躍し、新六人は新進気鋭としてこれを扶けた。
それらの人々を中心としてやがて日興門流が形成され、富士門流として繁昌した。
日興は約四〇年にわたり重須に住して弟子を育成し、正慶二年二月七日、八八歳で寂した。
〔賜書概説〕六書のうち三四二、三四四、三四六の三書は熱原法難関係のものであり、四二八、四二九の二書は南条時光の病気平癒に関するもの、続四九は続集に編入され、偽書である。
(一)伯耆殿御書(ほうきどのごしよ)(三四二)=日興書写断片 重須本門寺蔵。
『縮刷遺文』第二続一二一頁、弘安二年(一二七九)九月二〇日付。
この頃は熱原法難が最高潮に達した時で、同年八月には熱原の信徒の弥四郎が殺害され(定一六八一頁)、九月二一日には熱原の信徒神四郎等二〇名が捕えられて鎌倉に護送された。
本書はこの危急存亡の時に当って、瀧泉寺行智側との法論について日興から質問があったのに対して答えられた書簡かと思われるが、末尾一紙程度の断片であるため、詳細は不明。
(二)伯耆殿御返事(ほうきどのごへんじ)(三四四)=日興書写本 重須本門寺蔵。
『縮刷遺文』続一九九頁、弘安二年一〇月一二日付。
日興・日秀・日弁らあて。
神四郎ら二〇名が鎌倉に連行された事件を有利に解決するため、日興・日秀・日弁は協同して『滝泉寺申状』の草稿を書き、身延の聖人に添削を依頼した。
本書は添削なって返送する『申状』の添書である。内容は
(1)『申状』の認可。
(2)鎌倉に拘禁されている熱原の百姓らが正当に裁かれて安堵されるならば、日秀らが『申状』を提出して問注に及び、事を荒立てる必要はない。
(3)大進房や弥藤次入道らが狼籍を働いて百姓を殺害刃傷したのは、行智が教唆したからであるが、この事実を無視して、もし幕府が起請文すなわち謝罪状を書いて差出せと強要しても、決して提出してはならない。
その訳は先方に殺害刃傷された上、更に起請文を書いて当方に失ありと認めるなどということは、古今に類のない沙汰だからである。
(4)『申状』に書かれたところによると、行智は身を置く処もないほどの罪過を犯している。
もし問注に及んだ場合は、この点を強硬に主張するなら、必ず上聞にも達することになろう。
(5)もし行智が証人を立てたら、その証人は行智と共謀して百姓らの田畠数十を刈取った人々であると申せ。
もしまた証文を出したら、それは謀書だと申せ。
行智側の証人の起請文は絶対に採用するな。
(6)要するに彼らが当方の百姓を殺害刃傷に及んだという現証のみで終始せよ。
もしこの義に違背するものがあるなら、日蓮の門家ではないと思え、と。
(三)変毒為薬御書(へんどくいやくごしよ)(三四六)=日興写本 重須本門寺蔵。
『縮刷遺文』続一九八頁、『日蓮正宗版御書全集』では「聖人等御返事」と題す。
弘安二年(一二七九)一〇月一七日付。
宛名の「聖人等」とは日興・日秀・日弁らを指す。
本状は鎌倉に連行された熱原の百姓二〇名の中の神四郎・弥五郎・弥次郎の三人が二日前の一〇月一五日に処刑されたことを報じた日興らの急報を受けての返報教示状である。
状は「今月十五日酉の時の御文、同じく十七日酉の時に到来す」と書き出されている。
三人惨殺の悲報をもたらせた急使は鎌倉・身延間を丸二日で走破し、事態急変の顚末を日蓮聖人に告げたのであった。
聖人は即刻本状の筆を執って日興らへの指示を記し、急使に持ち帰らせたのである。
ところで、熱原法難の全体像、事件推移展開の委細は関係資料の不足が災いして十全ではない。
ことに問題なのは、信徒三人の斬殺日、残る拘留信徒一七名の釈放日つまり事変の解決・裁判闘争の勝利・門弟の駿河帰国等、事件終末時期の特定である。
この重事がきわめて曖昧のままに法難が論じられている。
本状の切迫した記述「彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云」とは三人斬首の悲劇に接してのものである。
即ち、斬首日は一〇月一五日である。内容は、
(1)斬首の時も、百姓らは専ら南無妙法蓮華経と唱え奉ったとは、これは只事ではない。
定めて取調べの平左衛門尉頼綱の身に十羅刹女が入りかわって、法華経の行者の不退転ぶりを試されたのであろう。
雪山童子・尸毘王の前に帝釈天が大鬼あるいは魔となって現れてその志を試したのに異ならない。
あるいは悪鬼が頼綱の身に入ったのであろうか、とその場の情景に感涙される。
(2)釈迦多宝十方諸仏の五五百歳の行者守護の誓が果されるのはこの時である。
妙の一字を釈して龍樹・天台は「能く毒を変じて薬と為す」といった事が虚妄でなければ、定めて立ちどころに賞罰が下され、この凶事は変じて広宣流布の端緒となるであろう、と一層の不退転を勧励し、
(3)日興らも百姓のこの強信ぶりを深く胆に銘じて問注を決行せよ。
(4)頼綱に対し、最後にこう申付けなさい。
文永八年九月一二日御勘気のとき、聖人が汝にいわれた言葉よりも忘れはすまい。
行者を迫害すれば亡国亡身の結果を招くという、その悪報いまだ終らぬうちに、またも今重ねて十羅刹の罰を招き寄せたいのかと。
(5)追伸 行智らの悪行の数々を告知するならば、当方は無罪なりと人々も知るであろう。
また大進房がなぜ落馬したかも露顕するであろう。
そして人々は法罰を恐れるであろうが、全く彼の落馬は天の計らいであった。
しかしおのおのは何事も恐れてはならない。
いよいよ信心を固めて正義を推し進めてゆくならば、必ず何かの子細が現れて、当方に不利になることはないであろう。
この次に使いを立てるときは、淡路房をよこしなさい(あるいはこのたびは淡路房を派遣するか)。
(四)伯耆公御房御消息(ほうきこうごぼうごしようそく)(四二八)=日朗代筆正本 富士大石寺蔵。
弘安五年(一二八二)二月二五日付。
日付の下に日朗の署名花押あり、折から聖人も病悩が重かったと見え、日朗が代筆したのである。
南条七郎次郎時光が病気平癒の祈念を請い、その布施として鹿毛の馬一疋を献じた。
これに対し、「時光は日蓮に御こころざしふかきもの」なれば病気平癒疑いなしとその方法を教え、伯耆房日興へ寄せられた御消息である。
病気平癒の方法とは、薬王品の「此経則為閻浮提人病之良薬、若人有病得聞是経、病即消滅不老不死」の二八文字を浄紙に写経し、これを灰にして浄水一合に混入して服するという方法で、かねて聖人の母が臨終の時もこの方法を用いて効験があったという。
浄水は「しやうじかはの水とりよせ」とある。
「精進川」は南条氏居住富士郡上野郷を流れる富士川の一支流。
(五)法華證明鈔(ほつけしようみようしよう)(四二九)=真蹟九紙のうち、第一紙は高槻市一乗寺蔵、第二紙前半の一行を岡山県高松妙教寺蔵、連接する次の一行を千葉県市川市個人蔵、第二紙後半六行は京都妙蓮寺蔵、第三-九紙は静岡県西山本門寺蔵(重要文化財)。
欠失は第二紙前半の四行ほどである。
富士大石寺に日興写本があり、日付の次に「下伯耆房」とある。
弘安五年(一二八二)二月二八日付。
異称としては、「伯耆房御書」(日朝本録外)、「除病延命抄」(三宝寺御書、本満寺御書)、「法華経行者事」(本満寺御書)、「上野死活抄」(考文)等がある。
二五日付の治療が効を奏せず、時光の病勢を心配した日興から折返し祈念を依頼してきたか、または聖人自身さらに手だてを尽くそうとされたか、三日の後に聖人は自信の病を侵して本書を綴り、行者を悩ます鬼神を叱咤したのである。
文字雄渾、一行約九字、一紙一一行の大文字にて、いわば書による聖人の病悩平癒の祈祷である。
この書を拝した時光は、一時に振い立って病を克服した。
(六)日蓮一期弘法(にちれんいちごぐほう)(続四九)=北山本門寺の記録によると、本書の真蹟は天正九年一五八一武田の家臣に奪わると、左京阿日教の『類聚翰集私』に収録されるから、長享二年(一四八八)以前の作であるが、日蓮宗門においては偽書とし、定本も続集に収めている。
この書は弘安五年九月、聖人が一代の弘法を悉く日興に付属された譲状であるが、例えば文中「富士山本門寺に戒壇を建立せらるべき也」とある重須本門寺は永仁六年(一二九八)二月一五日の建立であるから、祖滅一七年に当り、年次上の錯誤あり。
《『日蓮聖人遺文全集講義』、『昭和新修』解題、堀日亨『富士日興上人詳伝』》
(浅井円道)
【補記】昭和四三年の『定本遺文』再版にあたって日興賜書一通が新加された(定二八七四頁)。
遺文番号四三八『伯耆殿竝諸人御中』である。
立正安国会の真蹟影印事業による発掘で『日蓮大聖人御真蹟』収録。
同集の『対照録』(中巻三八二頁、昭和四二年刊)参照。
真蹟は和歌山了法寺(元宗門寺で現天台宗)蔵。
丁符「十九」が付されていて本書状は第一九紙と知れる。
日付「九月廿六日」とあり、日興の「弘安二年」との到来年次書き入れがある。
内容は熱原法難に対処して鎌倉に上っている日興や日弁・日秀をはじめとする門弟一同へあてた指示書である。
駿河の農民信徒二〇名が鎌倉へと拘引された直後の状である。
用箋一九枚を費す長文の本状の全文が知れれば、不明のこと多い熱原法難の全体像を彷彿し得ようからその不存が惜しまれるが、その後、東京都国土安穏寺所蔵の『断簡追加Ⅶ号』(定二九四二頁)が本書第三紙の冒頭三行、京都頂妙寺所蔵の『断簡一五八』(定二五二七頁)が本書第七紙十二行であることが判明(坂井法曄「伯耆殿竝諸人御中御書の原型について」『興風』一七号)。さらに下田市了仙寺所蔵の二行断簡が国土安穏寺所蔵断片に接続するものであることが判った(都守基一「新出の日蓮聖人真蹟「伯耆殿竝諸人御中御書断片」」『日蓮仏教研究』十一号)。
図版