日興(伯耆房・白蓮阿闍梨)
日興(伯耆房・白蓮阿闍梨)
にっこう
(一二四六-一三三三)
寛元四年三月の生れ、父は甲斐国鰍沢の大井橘六、母は駿河国(静岡県)河合の由比氏(西山氏ともいう)の女である。
幼童のとき富士に移り駿河蒲原荘の天台宗四十九院に入って修学、天台宗の学問・儒学・国学を学び、かねて同地の地頭冷泉中将に従って歌・書を修学したという。
正嘉(一二五七)のころ日蓮聖人が『立正安国論』製作のため岩本実相寺に入られたとき聖人の弟子たらんことを請い、許されて門下となり伯耆房といい日興と名を賜わったという。
爾来勉学、修養に努め、聖人の元にあって給仕に励んだ。
文永八年の佐渡法難時には流謫の師に随従して仕えた。聖人が身延山に入山されるや日興は駿河を中心に甲斐・伊豆方面に布教し南条、高橋、西山、新田、松野等各地豪族を教化して着実に地歩を固めた。
弘安二年(一二七九)九月岩本実相寺、四十九院、熱原瀧泉寺の大衆及び信者が同地に勢力をはるに及んで諸寺の長老、院主たちが圧力を加え、更に瀧泉寺の院主代平左近入道行智は同地の有力信徒神四郎ら二〇名を捕えこれを鎌倉に護送した。時に平左衛門尉頼綱は彼らに改宗をせまり拷問を加えたが屈する所がなかったので、神四郎兄弟ら三人は遂に斬首に処せられた。信徒たちが鎌倉に送られるや、釈放運動も行われ、これが功を奏してあとの一七名は赦された。いわゆる熱原法難で、これによって宗徒の意気をますます盛んならしめた。
弘安五年一〇月八日、聖人は本弟子六人を定め滅後の法灯とされたが、日興は白蓮阿闍梨の名を賜わった。
翌年正月、百ヵ日忌に際し身延輪番のことが定められた。
輪番は一年ばかりは務められたが、三回忌のころには当番はなおざりになり身延山は荒廃したようである。
弘安七年九月日興の当番は九月であるからこのころ登山したところ聖人の墓は鹿の蹄にかかり荒れはてて「目もあてられぬ」ありさまであったことを一〇月一八日付『美作房御返事』に報じている。かくて日興は身延山に常住して身延経営に任ぜんとし、地頭の南部実長と相談しその諒承を得たのである。これによって日興は駿河の弘通地富士と往返、諸準備を整え、恐らく弘安八年九月、聖人忌日の前月ぐらいから正式に身延の住持として臨んだのであろう。
富士門流の伝承によれば日興は聖人の相承を受け、身延の総貫首となり、弘安六年より正応元年(一一年改元)まで六年間居住したと伝えるが、日興と実長の書状を見れば、弘安六、七年に常住した事実は見られない。
同門流では日興を総貫首であるといって盛んにこのことを主張するが、当時「総貫首」などという職制も職名も身延山には設けられていない、全く架空の名称である。これは室町時代に成立した富士門流の相伝『百六箇相承』という書に「白蓮阿闍梨日興をもって總貫首となし」とあるのでこの書によって総貫首という職をつくりあげたのである。
日興の高弟、新六人の一人で大石寺四世となった日道はその著『日興上人御伝草案』(六世日時の著とも言われる)に「日興上人は大聖御遷化の後、身延において弘法をいたし、くげ関東の奏問をなして三ヵ年が間身延山に御住あり」と在山は三カ年であったと明言している。
このころ日向が登山して共々に経営に当らんとしたので、日興は自身を院主、日向を学頭に当て、教育、運営に当り、ここに長老合議制による身延山の経営が始められたのである。
元来日興は資性謹直、その信仰態度は純信、厳粛で、門下の教導も仏祖に対し至心恭敬の給仕を勧められたようである。一方日向は温和、寛厚いわば和気藹々とした常識人であったらしく、従って入山ののち実長始め諸檀那の指導に当っては日興の厳格な態度と異なり対人応化の寛容な方法で臨んだもののようである。この指導上の対立は間もなく南部実長の信仰指導をめぐって現れ始めた。
即ち造像・神天上義・謗供の問題で第一に実長は釈尊の一体仏を作ったが、これには四菩薩がそえてないから始成無常の迹門の仏で本門の本尊とならぬ。第二に三島神社に参詣し『安国論』の正意である神天上の法門をやぶった。
第三に富士の塔供養に馬を布施し謗法供養を行ったと、いわゆる「三箇の謗法」を数えあげて実長の改悔を迫った。
実長は一体仏の仏であっても寿量本仏として造立したものであるから始成の仏ではない。
三島権現に法華経の持者が参詣し法味を捧げれば必ず来下し給う。
これは日向上人も鎌倉の諸師も参詣してよろしいと申しておられる。
また富士の塔供養のとき謗供を捧げたと責められるがそのような事実はないと弁駁したのであるが日興はこれを認めず相共にゆずらなかった。
かくして日興は実長の翻意を望むことは無益と知り、下山して聖人の教えを弘めようと決意し、正応元年一二月初旬身延山を下り、自身弘通の本拠である富士に移ったのである。
日興は身延山を下って河合に行き、大石ケ原に南条時光の請を受けて草庵を建て、しばらくここに止住した。
これが大石寺の初めである。
これより指呼の間にある重須(この間約二キロ)の地に石川孫三郎能忠、南条時光及び小泉法華衆・上野講衆が施主となり永仁六年(一二九八)二月、日蓮聖人御影堂・本化垂迹天照大神宮・法華本門寺根源の三堂を包合する重須本門寺が建立された。
日興はここを根拠とし、これより正慶二年(一三三三=元弘三年)二月七日、八八歳入寂に至るまで三六年間にわたり弘通活動・門下教育に当ったのである。
永仁六年、日興は『本尊分与帳』を製して御本尊分与者の名を書き止めたが、その数、僧二八名、俗弟子男子一四名、女子七名、在家弟子一八名合計六七名に及んでいるが、この時に日持・日弁・日法・日永・日位・日伝・大夫房日教・肥後公・筑前房の九名は「聖人滅後背き了ぬ」聖人滅後離反したと記した。
しかもこれに俗弟子一四名中二名、女子七名中二名がそむいて離れている。
而して他に南部実長入道日円を始めとする南部一門一一名がいるが、この人々はこの分与帳には背いたとは書かれていないが、共に離反した人で、合計二四名が日興から背き去っている。
このように多くの門下を失ったことは日興にとって耐えがたい痛恨事である。
かくしてこれらの人々を誘引したと考えられる日向と鎌倉の諸師に対する反発が、日向に同意する鎌倉の五老僧と富士日興一人と対立、いわゆる「五一相対」を醸成することになるのである。
日興はこの『本尊分与帳』において聖人の先例にならって一弟子六人を撰定した。
第一に寂旦房日華、第二に卿公日目、次に下野房日秀、少輔房日禅、摂津公日仙、了性房日乗を挙げ、この六人を「日興第一の弟子」と定めた。
しかるに日興は八八歳の高齢を保った人であるからその晩年にはこの一弟子たちも老齢となり、加うるに日乗、日禅の如く先立って死没する者もあったので、新しく六人の若徒の竜象を選び出した。
日代・日澄・日道・日妙・日豪(日郷)・日助の六人でこれらは新しく定められた六人であるから新六人(略して新六)といい、先の六人を本六人(本六)と号した。
日興門下はかくの如く多士済々であるがこの他に三位阿闍梨日順・薩摩阿闍梨日叡・佐渡阿闍梨日満、大夫阿闍梨日尊らがある。
正慶二年(元弘三年)二月七日重須において入寂、八八歳。
著書に『安国論問答』『五重円記』『開目抄要文』等その他がある。
《『宗全』二巻、日精『富士門家中抄』、日辰『祖師伝』、堀旦予『富士日興上人詳伝』、『遺文辞典』歴史篇「日興」の項、『昭和新修』別巻「伯耆房日興」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と六老僧」の項、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』『国史大辞典』一一巻「日興」の項、『日興門流上代事典』「日興(白蓮阿闍梨・伯耆房・富士上人)」の項》
(宮崎英修)
図版