五一相対
五一相対
ごいちそうたい
日蓮聖人滅後、六老僧の中の日興が他の五老僧と対立したことをいう。
弘安九-一〇年(一二八六-八七)の頃、身延山では日興・日向の二長老が身延に住し、南部実長の教化指導をしていたが、対立するようになり、更にそれが身延山後継者問題に発展したのである。
日興は実長に三箇の謗法があるといって実長及び学頭日向を難じた。
即ち
(1)三島神社に参詣して安国論の正意たる神天上の法義に背いた。
(2)本尊に始成無常の一体仏を造立した。
(3)南部郷富士の念仏塔供養の奉賀につき、謗施を行じた、というのである。
実長は日向に帰依することになり、日興は正応元年(一二八八)一二月初旬、遂に身延を去り富士に移ったのである。
日興は更に日昭・日朗と訣別し、弘安七-八年(一二八四-八五)頃の鎌倉教団の動向について同情的な見解を改め、日昭・日朗のとった行動を非難し、「彼らは天台の弟子である、聖人の御弟子に非ず」と攻撃するに至った。
かくて日昭ら五人を鎌倉方、日興を富士門跡と称するようになった。
興門では、この日興の身延離山の原因を、五一の間に対立した教学上の相違、即ち本迹勝劣に基づく宗号の名分論、本尊における大曼荼羅対仏像の傍正、並に一体仏用否の論、戒門の持破、神明の有無、社参の可否、和漢両宇の得失論等であるとし、これを五一相対の教学と称した。
しかし五一の対立はもともと身延後継問題に端を発するものである。
故に『五人所破抄』、『富士一跡門徒存知事』等に現れる五一相対の教学は、日興離山の原因というよりはむしろ、日興の身延離山後、日興の遺弟が関東学派との対立意識の下に両派教学を特色づけんとして成立させたものである。
《『日蓮辞典』『日興門流上代事典』「五一相対」の項》