三箇の謗法
三箇の謗法
さんかのほうぼう
日蓮聖人の滅後に六老僧の一人たる日興が、身延の地頭たる南部実長に対して、次のような三ヵ条の謗法があるとし、これを非難したことを指す。
即ちその一は、三島神社に参詣したことにより『立正安国論』の正意とする神天上の法義に背いてしまったこと。
二は、一体仏を造立して始成正覚無常の仏を本尊としたこと。
三は、南部郷富士の念仏塔供養の奉賀を行い謗施をしたこと。
以上の三ヵ条を挙げて実長の謗法を批判した。
この三箇の謗法は、日興が実長の四男たる原長義(法名日教)に書き送った『原殿御返事』に出ている。
なお、『富士一跡門徒存知事』によると、「九品念仏の道場を建立した」との一項が付け加えられている。
このことの起りは、日蓮聖人の御廟を六老僧を中心として輪番で守護し給仕することに決ったが、各人それぞれ自分の地域において布教に専念することになったので、次第に輪番制が守りにくい状態となった。
そこで弘安八年(一二八五)の末ごろから、日興は実長や日昭・日朗らの同意をえて身延に常住することになり、院主となった。
その翌年、日向が登山して学頭職についた。
ところが、日興は厳格一徹であったために実長との間に溝を生じた。
一方、日向は温和で寛容な人柄であったので、両者の性格は教化活動の面にも各々の特徴を見せたが、次第に対立の色を濃くしていった。
実長は弾力性のある日向に親しくなり、日興とはそぐわぬものとなっていった。
こうした背景の中から、日興は実長に三箇の謗法があるとして、実長と日向を非難するに至ったのである。
第一の三島神社への参詣についてであるが、弘安一一年頃に実長が、三島明神への参詣をしようとしたことを日興が知って、越後房日弁を使いとし、これを止めさせようとした。
それは『立正安国論』の中で、「世みな正にそむき、人悉く悪に帰す、故に善神、国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず」(定二〇九-一〇頁)とあり、正法たる法華経の弘まっていない国土では、守護の善神が威力を失い擁護の志を捨て、その国土を去り他方におもむいて還らないというのであるから、善神捨国の状態である神社への参詣は必要ないとしたのである。
しかし、実長は聖人が在世当時に氏神の参詣を別に禁止されたこともなく、他の弟子の意見を聞いてみると「諸神此の国を守り給ふ」というので、日向に可否を問うたところ、『安国論』で善神捨国と説かれたのは邪法が弘まり正法がすたれているからであって、法華経の行者が参詣して祈願すれば諸天善神は来会して法華の正法により守護の力をえ、擁護を垂れ給うのであり、従って参詣すべきであると述べた。
即ち神天上義では悪法による善神捨国の面と、正法たる法華によって擁護の面とがあるのであるが、日興はもっぱら捨国の面のみを強調したのであった。
第二に、実長が始成正覚の一体仏を本尊とし久遠本仏を本尊としなかった点であるが、実長とすれば聖人が常に信仰された随身の立像釈尊一仏をしのんでの造立であり、これを久遠の本仏として尊崇したのであった。
日興にすれば、本化の四大菩薩が脇士として造られていないので、この一仏は始成正覚の仏であると見なし、本尊における謗法を犯したものと非難したのである。
また第三に、実長が念仏の塔供養を行い謗施をしたことについて、日興は「もっての外の僻事に候」と言っているが、これは九品念仏堂供養のことであり、もしこれが事実とすれば、実長は謗法を犯したことになる。
実長の書いた『日円書状』(断簡)によると、念仏を供養したということであるが、実は親しい者に馬を一頭与えたところ、その馬をもらった者が、後日念仏供養に出て、その馬を寄進したのであって、私が直接行ったのではないと述べ、念仏供養の誤伝であることを弁明したが、日興はこれを認めなかったのである。
馬をもらった者が、全く自分の意志で奉納したのにもかかわらず、その責任を負わされることは迷惑であるというのであるが、日興からすればこれは間接的な奉納ともなると考えたのである。
こうした三箇の謗法を挙げて、日興は実長及び日向を非難し、互いに対立を深め、遂に日興は正応元年(一二八八)一二月、身延を下山し富士の麓、大石が原へ移ったのであった。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『遺文辞典』歴史篇「波木井実長」の項、『日興門流上代事典』「波木井謗法問題」「富士一跡門徒存知事」の項》