宗門鑽仰歌
宗門鑽仰歌
しゅうもんさんごうか
本宗をする鑽仰するために作られた歌。
鑽仰歌として第一にあげねばならないのは聖詠三首である。
明治になって「君が代」が国歌として国の祝祭日を始め公の行事に歌われる様になって来ると、宗門においてもこの影響を受けて宗門聖日の法要儀式や行事に「宗歌」を歌う様になってきた。
宗歌は初めから宗定のものがあったのではない。
明治三七年ごろには日蓮宗大学(立正大学)音楽教師荒木秀明が「立ちわたる」「おのづから」「芦の葉」に思い思いの曲をつけていた。
昭和の初期祖山学院では毎週身延小学校で子供会を行い、三首を同一曲(作曲者不詳)で歌い、立正大学では弘田龍太郎、室崎琴月曲(あるいは福家辰巳か)の「立ち渡る」を式の初めに「おのづから」を終りに歌ったが、この二つは別々の曲であった。
北尾啓玉(日大)は『日蓮宗法要式』で発会式・開校式・宗祖法難会・降誕会等の差定の初めに「立ちわたる」終りに「おのづから」を入れている。
また聖讃歌として法華和讃「帰命妙法蓮華経、一部八巻四七品迹門本門二門にて序正流通を分ちたり(略)」を始め、林竹次郎(古渓)詞「お会式の歌」山上ゝ泉詞「お祖師様の歌」小林一郎作詞(法国歌)「衆生のため一乗の/大き教を樹てましし/栄誉ぞ世々にさくら華/異国までも句ふらむ」その他数種をのせている。
宗門寺院の子供会・日曜学校・幼稚園等の教化活動が盛んになるにつれ、教材を充実しなければならなくなり讃歌がつくられる様になった。
昭和一二年(一九三七)宗務院社会課では『日蓮宗讃歌集』第一集を出版した。
馬田行啓教学部長は「芸術の極致は宗教の堂奥に通じ宗教の境地は芸術によって涵養せられる」と述べ、本宗関係の日曜学校・幼稚園その他の学校及び団体の用に供せんがため編纂した旨述べている。
歌はすべて五線譜の伴奏がついていて、前記『日蓮宗法要式』の増訂といった感じの内容である。
この中に宗歌として「立ちわたる」「おのづから」弘田龍太郎曲がのせられ宗定宗歌として統一された。
また「献香献華の歌」江崎小秋詞・山口保治曲(立正の教も尊きこの園に/集える我等まごころこめて/香りもゆかし此の香を/やさしく咲けるこの華を/み仏に献げて/限り無き妙法のひかり仰ぎ讃えむ)「聖祖降臨」山上ゝ泉詞・前田久八曲、「聖祖鑽仰歌」山上ゝ泉詞・中田章曲、「建宗会の歌」江崎小秋詞・山口保治曲、「お会式の歌」江崎小秋詞・山口保治曲、「日蓮宗護法の歌」江崎小秋詞・本多鉄磨曲その他がのせられ、主として児童対象で献香献華の様に詞も曲も成人に向いているものもある。
昭和四一年梶山智孝は孔版の『仏教聖歌』第一集を出版し「自我偈讃歌常住」布施浩岳詞・野村耀昌曲、「大いなる願に生きん」梶山詞・林良夫曲がのせられている。
『立正学園歌集』には「寿量讃」山上ゝ泉詞・池田四郎曲、「宗祖降誕会の歌」林古渓詞・平井康三郎曲がのせられている。
「寿量讃」は新訳「久遠偈」七頌という副題で一から七まで別の旋律で一番斉唱二番三番二部合唱(重々しく)五番六番は三部合唱(明るい浄土)を表現している。
歌詞は一、「われもろもろを救はむと/みほとけの道得てしより/うつせみの世にはかりなき/いのち絶えせず法を説く」(自我得仏来、億載阿僧祇)七、「世尊は常に念ずらく/はらからうから速やかに/菩提の道を相践みて/永劫にかがよふ身ともなれ」(毎自作是念、速成就仏身)、「聖祖鑽仰歌」は、一、「太平洋にうち対ふ千光山のいただきに/永恒の生命の日輪をみあかしとして末つ世の/迷妄の雲を晴らしけむ/ああ吾がみおやわがひじり」。
福岡県本仏寺佐野前光は開宗七〇〇年に「三宝讃歌」(日蓮)を作った。
宮城道雄作曲である。
帰依三宝三聯からなり、「みつかいは久遠のみむね受けたまい/末法濁世に生れましてやすらぎもなく血しほもて/いばらの道に立ち給(た)まふ/そのあかしにぞわれら生く/そのあかしにぞわれら生く」。
箏曲の特徴を生かした名曲である。
山上ゝ泉・林古渓は共に立正大学教授で山上は国文学者で和歌かぐのみを主宰し、林は漢学者で漢詩に長じ一般には「あした浜辺をさまよえば」(成田為三曲)の「浜辺の歌」の作詩者として知られ立正大学躍進歌平井康三郎曲の作詩者である。
江崎小秋は仏教童謡という言葉を初めて用い仏教童謡作家として活躍し多くの仏教讃歌を残している。