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川柳

せんりゅう #1927

川柳

せんりゅう

近世庶民の文学として最も一般に親しまれてきたもので、俳句が季題を尊び内容の高雅さを要求する傾向にあったのに比較して、より自由に、より簡易にという期待に答えて発生していった。
本来、初心者が俳諧付合の修行の一方法として行われていたものが、一句立で軽妙なおかしみを持ちつつ独立の一句となったものである。
江戸浅草新堀端の名主であった柄井八右衛門正通が川柳という号で、宝暦七年(一七五八)頃から盛んに作り始めて行ったので、その号をとって「川柳」と呼ばれるに至り、その後その名称が定着するようになった。
もともとは柄井正通の号から出たもの。
本来、川柳は初心者が俳諧付合の修行の一方法として行われた。一句立で軽妙なおかしみを持ちつつ独立の一句となったものである。
江戸浅草新堀端の名主であった柄井八右衛門正通が川柳という号で、宝暦七年(一七五八)頃から盛んに作り始めて行ったので、その号をとって「川柳」と呼ばれるに至った。
明和二年(一七六五)五月に下谷竹町の星運堂書肆から出版された『柳多留』は、古川柳の代表本として有名である。
編者は呉陵軒可有であるが、点者として柄井正通が活躍し「おかしみ」と「うがち」それに「諷刺」とを生命とする川柳は、その後次第に栄え、今日に至っている。
『柳多留』を始めとして、数多くの川柳本の中には江戸庶民の間で信仰された法華経、及びその法華経を弘めた日蓮聖人に関する作品も数多くあり、宗門の性格を詠った川柳もおびただしい数にのぼっている。
例えば、「日蓮は柿と葡萄にあき給ひ」の句は身延山での聖人が九年間の在山生活において、甲州名産の柿や葡萄に食べあきたであろうという内容であって、庶民の中から出られた導師に対する親しみの情がこめられた作である。
また「逆さまな題目を八百屋取り」という句は日蓮宗であった八百屋お七をよんだもの。
「弥陀釈迦の違ひ不縁の元となり」はお釈迦様を尊ぶ日蓮宗と、阿弥陀様を崇める浄土宗の信徒が、互いに信仰心が深くなるにつれて、不縁となっていった様子である。
親鸞は川越日蓮は波の上」「竜口虎口の難も法の徳」などの句がある通り、四大法難の中でも特に竜口と佐渡の流罪は聖人にとって最も大きな危機であったので、俳句川柳にもこの法難が取上げられているのは当然ともいえる。
「日蓮の末世に残す波の髭」の句は、佐渡へ渡る途中の「波題目」を詠ったものである。
「妙法の深さは波の文字で知り」の句は、妙法五字の深を「波題目」にたくして表している。
日蓮聖人といえば「お題目」といわれる程に有名になっていたが、特にこの「波題目」の話は、一般によく知られていたものである。
「唐人を髭題目で二退治」という句も見られる。
文永・弘安の二役、蒙古の来襲に対して、聖人はすでに『立正安国論』で、他に攻められるであろうとの予言をされているが、この予言の的中したこと、お題目の力で二までも退治したとして、これを句としたものである。
「白犬に前非をくいて弟子となり」。
「岩に恥ぢ修験も重き師と仰ぎ」の句は聖人が身延へ到着され、庵室ができ上るまでの一ヵ月間を利用し、付近を遊化された際、小室山妙法寺の善知法印下山上沢寺の法阿闍梨を化されたの句である。

このほかにもお会式や万灯に関するもの、あるいは「法華の太鼓」に関する句など、古来数多くの川柳が残されており、法華信仰の盛んであったことを物語っているものが見られる。
例えば「祖師の桜も吉野から漉いて出し」の句は、お会式桜を吉野紙で作って飾ることから、花の名所の吉野とを掛合せたものである。
また、「夕立や法華とび込む阿弥陀堂」という句もある。
更に「病人は皆帰妙法願ほどき」の句もある。
皆帰は快気の意味も持ち、妙法経力による諸病の皆癒を詠ったものであろう。
こうした一連の「法華・経歌」(狂歌)は数多くの人々ので流行していった。
《『史大辞典』八巻「川柳」の項》

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