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俳句

はいく #653

俳句

はいく

日本独自の短文学である俳句は、本来、五七五の一七文字によって表される定型の一つであり、「季題」を尊重するものである。
古くは「俳諧」といわれ俳句を取入れて書かれた「俳文」や「紀行文」その上、俳句についていろいろ書かれた「俳論」等があり、句を入れて描いた「俳画」などもある。
俳句は初め「発句(ほっく)」と呼ばれ、連歌の第一番目に詠む句という意味をもっていた。
しかし次第に発句だけが独立して詠まれるようになり、遂に連歌とは切離されて、発句のみがつくられるようになり、松永貞徳から元禄時代の松尾芭蕉を経て、天明時代の蕪村や一茶に至り、俳句は一七文字の短としての領域を開き、日本における独特の文学として認められるに至った。
俳句という言葉が最初に使われるようになったのは、相当に古く、寛文とも元禄ともいわれているが、一般には明治二○年代(一八八七-九六)に至り、正岡子規が俳句革新運動を起してからのことであるとされている。
子規は「俳諧と云う語は滑稽の意なりと解釈する人多し、されど芭蕉已後の俳諧は、幽玄高尚なるものありて、必ずしも滑稽の意を含まず」と『子規全集』第四巻で述べている。

 俳諧文学と称されるジャンルの中では、一般的に芭蕉をもってその初めに置くことが多い。
芭蕉によって大成された俳句は、その時代における庶民の生活・習慣・信仰を大きく反映しながら今日にまで及んでいるのである。
日蓮宗との関係を見ると、芭蕉の出た頃の宗門は、幕府の保護政策とあいまって、学徳清廉な人材が多数集り、安定した隆昌代を迎えていたといえる。
や公等の有力な外護者をえて、身延を始め宗門各地の寺院が増改築を進め、また関東・関西方面には人材養成のための檀林が増設され、宗義の研鑽も盛んとなっていった。
また一方では寛永や万治・寛文年(一六二四-七三)の不受不施問題が起って、社会的にも大きな反響を呼んでいた代にほぼ相当することになる。
更に当団は庶民と密接な関係を保っていたので、信仰生活上の諸問題や年中行事等が、俳句の上に反映していったことは、むしろ当然であったといえる。

 まず芭蕉について見ると、平素日蓮聖人御書にも目を通し、お会式にも参加して「お命」の句も残している。
弟子達のでも、法華信仰にまつわる作品が、数多く残されている点から考え、蕉門の中では日蓮聖人に関心を持つ俳人も多くいたことが考えられる。
またこの点については、すでに松永貞徳の時代に、関西方面で宗門人による俳句会も定例化し、各寺院を回って句会場とし、僧俗での句会が盛んであったことも知られている。
貞徳自身が法華の信仰心篤く、法華経一千部の納経を行っている程である。
京都の妙満寺塔中である成就院の日如や越前本勝寺の日能らを始めとして、京都要法寺友閑、寂光寺泰円、本法寺実継、妙覚知足、柏崎妙行寺日柳といった諸師はこの頃から盛んに俳諧に興味を持ち、定例の句会を開催している。
それぞれの寺に集って、僧俗親しく句を競い合っていたことがわかる。
なかでも日能、友閑、泰円、日如の諸師は、貞徳門下でも有名であって、上位を占めている。
保九年(一八三八)に生川春明が編した『俳大系図』によると、これらの俳僧が当の俳壇で活躍していたことがわかる。
また力量を持ち名声を得ていたことを知ることができる。
このように古くは宗門の中からも俳句を作る者が多く出て、盛んに特色のある名作を世に残していった。
まず主な俳人の作品の中から、法華経や日蓮聖人を扱ったものを紹介してみることにするが、全句にわたることは許されないので、代表的なもののみにとどめることとする。
御命講や油のやうな酒五升 芭蕉」芭蕉といえばこの句をまず挙げることになるが、御命講はまた御影講ともいい「お会式」のことを指す。
一〇月一三日に池上宗仲の館で、聖人が入滅された御聖日をいうのであり、古来、歳時記の中では「日蓮忌」とも称して、一〇月の季題の中では最も一般に知られているものの一つである。
高浜虚子編の『新歳時記』によると、御命講の項を次のように解説している。
「東京池上本門寺は日蓮聖人の終焉の地で、御命講の最も盛んな地である。
前日から参篭する者、〈万灯〉と称へて造花で飾り立てた行灯を押し立て、団扇太鼓を叩き、題目を唱へて行く信者が絡繹として続く有様はまことに壮んである。
地方では一月おくれや陰暦のまゝ行はれている所もある。
お命花といって、主な檀から細く削った竹に小さい白い作り花をつけたものを献納し、参詣者が一本宛貰って来て仏壇に挿す習慣もある」。
現在行われているお会式の様式が、すでに芭蕉の頃には盛んに実施されており、「季題」として一般に認められていたということは、御命講の行事が日蓮宗寺院間では最も大きな年中行の一つとして、年々盛んとなって来ていたことを物語っているともいえよう。
これは日蓮聖人の「お題目」を中心とする法華信仰が、一般庶民の間に広く浸透していたことを証するものであると同時に、日蓮教団にあっても積極的な布教活動によって、人々の関心が日蓮聖人に向けられていたであろうことが推論できる。
それは俳句はいうまでもなく「季題」と五七五の「定型詩」という二つの重要な特徴を備えているが、この中の季題については、特に「行」(人)に関する季題は、一般をもったものでなくてはならないとされていたからである。
ち、一部の地方で極くわずかな人々しか知らないような特殊の行であっては、季語として一般に認められ難いことである。
こうした点からみても御命講の行は、当から今日にかけて、広く知られ盛んに実施されて来ていたことがわかるのである。

 なお、この芭蕉の句が最初に入集したのは、元禄九年(一六九六)に門人史邦の編集した『芭蕉庵小文庫』であって、この句が作られるに至った経緯については、芭蕉の歿後に、同じく門人の森川許六が志多野坡と手紙で俳論を闘わせたことがあるが、その手紙の一節に次のようなことが記されている。
芭蕉翁の雑談の折に、日蓮の御書に『新麦一斗、筍三本、油のやうな酒五升南無妙法蓮華経と回向いたし候』というのがあると話されたので、自分はさらば「御命講」の句はそれから取られたのか」(『風俗文選』)というのである。
この一文から推して、芭蕉聖人御書に対しても、よく目を通して弟子達と語り合っていたことがわかる。
おそらく芭蕉は池上かまたは堀之内のお会式に参詣していたと思われるが、この句は現在身延山内に句碑が建てられている。
正面にこのお命の句が彫られ、右側には、「此の山の志げりや妙の一字より 蓼太」の句が、また左側には、「法華経とのみ山彦も鳥の音も 完来」という句がきざまれている。
蓼太というのは蕉門の中でも著名な服部嵐雪の門下で、雪中庵三世を継いだ大島蓼太のことである。
この人は身延山七面山へも登り、秀れた作品を世に残している。
蓼太句集』の中には「身延七面山にて」という前書のもと、「榾の火や祖師の胡座も眼のあたり 蓼太」という句も見える。
この頃の七面信仰や祖師信仰の一端を窺うことができよう。
芭蕉にはもう一句、「菊鶏頭切りつくしけり御命講 芭蕉」という句も見られる。
旧暦の一○月中旬ともなると庭に残り咲く花も少なくなり、その草花を切り尽して御命講の供華としたという情景が描かれている。
芭蕉の他にも多くの蕉門によってお会式に関する句が見られるが、その代表的なものを拾ってみると、「精心の多き大工や御影講 許六」信心の篤い大工が一心に万灯を造っているところでもあろうか、「御影講や顱(こうべ)の青き新比丘尼 許六」そりたての青い頭をふりたてながら、新発意(しんぼつち)の尼が、忙しそうにお会式の準備をしている姿を詠ったものである。
「かたまりし哉餅や御影講 葎亭」作者の葎亭(りつてい)とは、蕉門早野巴人の門下である三宅嘯山(しょうざん)のことである。
会式にお供えした餅で、おしるこをつくった句である。
「下戸ならぬ餅も咲きけり御命講 素丸」餅花をつくってお会式に供えたこともこの句でわかる。
また、「紅白の餅のやお命講 虚子」とあるように餅をこしらえて供えるところもある。
「冬枯の世を花にする会式哉 素丸」「瓔珞の紙のさくらやお命講 蓬文」これらの句は一と月遅れや旧暦のお会式で冬枯となった地方に、餅花やお会式桜を作って華やかに飾りたてた本堂の模様を詠んだ句である。
これは、日蓮聖人の入滅のに、池上宗仲の舘の庭で、ならぬ桜が咲いたということに因んで、桜紙の造花を枝につけ、供華として飾ったことに由来している。
御影講の蓮やこがねの作り花 蕪村」天明俳壇の名家と称される与謝蕪村の句らしく「きらびやか」な句である。
御命講の華のあるじや女形 太祇」歌舞伎・浄瑠璃が盛んとなって来た頃、お会式供華のあるじが女形の役者であったというのである。
この頃のお会式はこうして広くあらゆる階層の人々により盛んとなっていったことがわかるのである。
大工職人から酒好きの町人、哉好みの町衆、更には芝居の役者等と素朴ながらも心のこもった御命講の行事が、次第に日蓮聖人を慕う気持の高まりと相まって、会式はやがて法悦感謝の念から、華やかなお祭の様相を呈するに至っていったのである。
これが句の上にも現れてきているといえる。
御命講の花かつぎ行くタ日哉 子規」正岡子規もまた日蓮聖人に関心を深くもっていたので、関連の句も多い。
佐渡へ行く舟呼びもどせ御命講 子規」「日蓮の骨の辛さや唐辛子 同」竜口から佐渡へ流され迫害の重なる生涯であったが、諸宗を折伏し破邪顕正を勇々しく実践された日蓮聖人の気骨のあるところをこのように叙したのである。
「いなづまや二打三打釼沢 蕪村」この句は明和七年(一七七〇)八月の作で、鎌倉におりて「稲妻」という題のもとで作られた中の一句である。
また秋田藩主で江戸留守居役をつとめていた佐藤晩得の句に、「芭蕉忌や南無妙俳諧蓮華経 哲阿弥」という句がある。
晩得は号を哲阿弥と称し蕉門系の俳人として知られ、寛政一○年(一七九八)には句集『哲阿弥句藻』を刊行している。
これは明三年(一七八三)に句稿は成り七五○余章を収めているが、その中の一句である。
芭蕉は元禄七年(一六九四)一○月一二日大坂で没している。
命日がちょうどお会式お逮夜の正当であるため、古来日蓮忌会式の行事と芭蕉忌とが重なり、法華の徒と蕉門の俳人では、この縁によって、しばしば合同の追悼法会や句会が催されていたのである。
南無妙俳諧蓮華経」とは、そうした状況をふまえた上での表現であって、単なる滑稽味をもたせたものとは異なるものである。

 また蕉門十哲の一人で、俳論を大成した各務支考は、享保四年(一七一九)に『俳諧十論』を著し、特に法華経の所説を基礎としながら彼独特の俳諧哲学ともいうべきものを形成していった。
例えば「虚実論」を見ると方便品寿量品の文を引用して依り所にしながらも「虚実」の論をすすめているのである。
支考は「それ経は法華を要として」と述べているように、法華経を諸経の要であると解し、その法華の要文によって、「我門の文章」を得たとしているのである。
実に支考によって代表される蕉門の俳論は、法華経の経文中に根拠を求めて諸経をも併用している。
これは師匠の芭蕉に対して深い関心を持っていたためでもあるが、彼自身が法華経に対してもよく目を通してその所説を重く視ていたことの表れであるといえる。
次に明暦二年(一六五六)に貞室によって補訂された『玉海集』に、「雨風や御難妙法日蓮華 尊為」という句が見える。
作者は「秋田野代常福院尊為」とあるので、僧職にあった人の作であると考えられる。
表現上に問題はあるが、忍難弘の生涯を貫いた日蓮聖人を叙しえた句といえる。
同じく僧職にあった人で忘れることのできない者に一瓢がある。
「妙法の火なら飛こめむしはさて 一瓢」この人は明和八年(一七七一)に生れ日暮里本行寺を始め伊豆玉沢妙法華寺・京都本満寺・妙顕寺の貫首を務めた高僧でありまた俳僧でもあった。
小林一茶と深い交りをかわした。
「法華よむ窓の上やきりぎりす 一茶一茶は上京して来ると必ず本行寺の一瓢を訪れ、宿を借りながら俳句や仏道の面で、互いに主伴となりながら両者は影響し合ったものと考えられている。
一茶はまた薬王品の「病に医を得たるが如く」という経文の心を帯して、「花を折る拍子にとれししやくり哉 一茶」という句も作っている。
これらは一瓢と交って得た法華経の心を詠ったものであるともいえる。
江戸代の談林派の祖といわれている西山宗因も、「涼風の声や八乙女七おもて 宗因」という句を遺している。
この句は七面山を詠んだものであり、八乙女とは提婆品に出てくる「八才の竜女」を指しており「七おもて」とは七面山を指しているものである。
また、法華経の意を俳句で表すことも、しばしば行われて来ている。
例えば元禄二年に山本荷兮によって出された『昿野』集の巻八には、方便品十如是を、「おもふ事ながれて通るしみず哉 荷兮」と詠い「即身成仏」と題して、「夏陰の昼寝はほんのかな 愚益」という句もある。
それぞれに題にしたものであるが、更に「薬王品七句」と題して、七偈に対し一句あての句を連らねている。
よく経文の意を捉えて的確な表現がなされている。
次に元禄三年の宝井其角撰による『いつを昔』には、方便品十如是について、次のような十句が載っている。
「相 稲妻や思ふもいふもまぎるるも 其角」「性 朝桜つとめぬとても仏かな 由之」「体 鬼灯のからをみつつや蝉のから 其角」「力すべらずに筏さす見よ雪の水 同」「作 秋の田やはかり尽して稗二俵 尚白」「因 弓になる笋は別のそだちかな 去来」「縁 山臥(やまぶし)の鳩ふく方に入りにけり 粛山」「果 二子山二子ひろはん栗のから 其山」「報 去年の蔓に朝顔かゝるかきね哉 素堂」本末究竟等、「うたたねにはかなき炭のくずれ哉 戦竹」。
このように十如是十句一連の作として詠い集めてあるところに特色がある。
この書は別名を『俳番匠』といわれているように、其角が去来や素堂らの俳句界における巨匠の作品を集めたものであり代表作が多い点でも知られている。
この他にも、明七年の『井華集』には、高井几董が「我等亦仏子」と前書して、「譬喩品の虫殺さじと払いけり 几董」という句を作っている。
几董はまた別に、「上京や月夜しぐるる御妙 几董」という句も遺している。
享和元年(一八〇一)の『はいかい袋』には、「日蓮とゆきあひ川やはつ松魚 大江丸」「妙法の妙はとむせる蚊遣りかな 同」「御命講や祖師に向てよめ披露 同」といった一連の法華信仰に関連した作品が見られる。
妙荘厳王を」と前書して、「つゆ須弥にあまつ芥子に置たらず」という句もあるので、法華経の各品に目を通していたことがわかる。
俳人でも経文について深い関心を持ち、題目会式の折などに俳句会が開かれ、説教法会のあとなどに句会が日蓮宗の寺々で催されていたことがわかる。
俳句を通して庶民の法華信仰は益々深くなり、解を高めつつまた一方では同信の集いにおける結束をかため、一種の社交の場ともなって行ったのである。
鎌倉や日蓮去って初松魚 子規」「鯨突く漁夫もまゐりぬ御命講 碧明」「家にふる髭曼荼羅や御命講 師竹」「日蓮に猿が持ち出しましら酒 鹿山寺」「日蓮の辻説法や早雲 悟」「茂りたつ祖師お手植の大銀杏 正久日」。
日蓮聖人のご一代を詠った句も、数多くあって枚挙にいとまない程である。
宗門の僧俗からも俳人が出て、現在に及んでいるが、これからも俳句はますます盛んになっていくことであろうし、宗門関係の人々によって法華経や日蓮聖人が詠まれて、広く普及し、信仰を深めて行く上に大きな役割を果し続けて行くことになるであろう。
「日蓮の選びし山の初日の出 正久日」「祖師遺文峰の紅葉の色濃しと 同」しかし、法華経の内容についての句はよく見ることができるが、日蓮聖人遺文に関する句はあまり多くないようである。
今後こうした面での句作も望まれる。
また他の宗門との比較をしてみるとき、日蓮宗の関係者からは、更に多くの俳人が輩出して、活躍することが期待されている。
《上田本昌「俳諧文学に現れた日蓮聖人」『棲神』三八号、「俳諧文学と法華信仰」『棲神』三九号、「俳諧文学に現れた法華経」『印度学仏教学研究』一四巻一号、上田本昌『日本文学に現れた法華信仰』》
(上田本昌)

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