一茶
一茶
いっさ
(一七六三-一八二七)
姓は小林、本名は弥太郎という。
俳諧寺一茶とも称し、宝暦一三年(一七六三)に信濃国上水内郡(現・長野市飯綱町)柏原村の農家・弥五兵衛の長男として生まれた。
三歳の時に母と死別し、継母に育てられるが馴染むことができなかった。
一四歳で江戸へ上り小僧生活を送ったといわれている。
寛政四年(一七九二)関西・四国・九州方面へ俳諧行脚に出かけ、「俳諧寺入道一茶坊」と号した。
以来、各地を巡って飄逸・洒落の句風を活かして、大いに俳諧の道に精進し、当時の俳壇で認められるに至った。
また一茶は信仰心も深く、神仏に対してはいつも敬虔の念を失わなかった。
出家したわけではないが、『一茶発句集』の中には、「我もけさ清僧の部や梅の花」という句にみられるように、形相・心情ともに僧に近いものがあった。
文化一一年(一八一四)に一茶が刊行した『三韓人』には、樗堂が寄せた手紙が載っているが、宛名は「一茶上人 榻下(とうか)」となっている。
同じく文化一一年、五二歳の時に一茶は菊女と結婚した。
この年の八月江戸に入り、日暮里の本行寺を根城に葛飾方面を廻り、江戸俳壇を去る挨拶をしている。
当時、本行寺には親友の一瓢(日桓)が住持していたので、暫くは一瓢と共に句作した。
一茶は江戸へ入るたびに、必ず本行寺の一瓢を訪れたといわれている。
文化八年五月には一茶と一瓢の「歌仙」が作られているが、その中には「押出す七里の船に素湯(うぶゆ)焚て 一瓢」「南無観世音ありあけの月 一茶」という作も見られる(『物見塚記』)。
また同一三年一〇月の江戸入りの時は、この寺で一茶は薙髪している。
一瓢にとっては句の友であり、一茶にとっては心の友であった。
互いに影響し合ったことはいうまでもないが、「我春も上々吉よ梅の花」の句にも見られるように、現実肯定の前向きな考え方は、一瓢から受けた日蓮法華宗の影響ともいえよう。
同一四年一茶五五歳の二月、一瓢は玉沢妙法華寺(第四一世)へ転住のため、一茶も本行寺を出る。
文政一〇年(一八二七)一一月一九日故郷信州の柏原で逝く。
六五歳「法華よむ天窓の上やきりぎりす」と詠っている。
《『国史大辞典』五巻「小林一茶」の項》